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ばっくとぅとっぷ


今日の城巡日記 9月22日(火)


 さて、前日付日記で書いた通り讃岐・伊予方面に行ってきました。目的は城巡り。そして、城巡り。以上。

 ……何が面白いのか分かる人は非常に限られると思いますが、私にとっての国内旅行の動機第一位は小学生の時以来ずっとこれなのですから仕方がありません。ということで、21日夜に神戸三宮でフェリーに乗船、10年弱ぶりくらいの四国大陸へ。



 フェリーの中はこんな感じ。連休中とあってか人は予想外に多く、乗り場の待合室は長蛇の列、和室の方は満員だったので椅子席に。しかし、さすが高松行きだけあって私以外の乗客は皆ことごとくさぬきうどんのガイドブック持ってますね…



 出港・到着ともに日の出てない間だったので、フェリーの写真はこれだけ。思っていたより大きいですね。後で調べたところ排水量3000t超、速力18.5ノットだそうで。阪神四国間を往復するだけとは思えない巨船…… って、それは私の商船に関する判断基準が第二次大戦あたりで止まってるせいですけど(苦笑)。



 甲板上から神戸の夜景を撮ったのち、おやすみなさい。

 1時くらいに出港で5時くらいには到着。連絡バスで高松駅に着いたのが5時半ちょっと前。そんな時間ですが、早くも本日最初の目標、高松城跡へ。



 夜明け前なので瑠璃色な。特に中に入れるようなものもない代わりに5時半から開いている(まあ、完全に街中の公園化してますから)のが、こういうアレな旅程の際にはありがたいところ。



 今でこそ陸地に取り込まれてしまっていますが、元は瀬戸内に面した海城であった高松城、その堀は今でも海水が引き入れられています。ということで、今でも鯉のかわりに鯛が泳いでたりするようです。なんで鯛に餌やったら大願成就するのかはわかりませんが、それはさておき(笑)。



 鯛、らしき魚が集まってきているのだが、上から眺めただけでは私には区別がつかない…… それ以前に、この写真ではそもそも魚が集まってるのかどうかがわかりませんね(苦笑)。それでも、堀の水からかあるいは単に切り離されたとはいえ海が近いせいか、潮の香りが漂ってくる城跡というのは珍しいもの。右はお願いの仕方が無闇に尊大だったので。この態度が許されるのはゾンビになってもなお珍重されるこの魚だけですよね。



 鯛の餌やり場付近から見る天守台跡。堀の中にほとんど天守だけが独立して突き出している構造はなかなか素敵…… ですが、今は石垣の解体修理中ということで、立ち入り禁止の上ご覧の有様。



 さて、高松城に残る建築物は月見櫓と艮櫓など。これは西門(駅から近い&この時間から開いてる方)から近い月見櫓。



 渡櫓と水手御門が付属しています。渡櫓の方の石垣には、後になって継ぎ足した跡が。



 庭園を突っ切って東側へ。



 その際見かけたもの。アスファルト大根やらなんやらが流行った時期にでも立てられたんでしょうか、この札。しかしさっきの鯛といい最後の言い回し、好きなんでしょうかこの公園の人。あと「たいがんじょうじゅ」という言葉も。



 一瞬「型」の字が見えなくて本家から貰ってきたのかと思ってしまった手水鉢。なんと紛らわしい。



 天守台付近に接近。今は見事に瓦礫の山です。なんか、この瓦礫の山の方で野良犬の親子と思しき4匹くらいの群れが戯れている様子が見えたのですが、いいのかなああれ。



 艮(東北)、といいながら、今は移築されて東南に建ってる艮櫓。なんかちょっとふとましい印象。



 東門はまだ閉まっていたので西門に戻り、外からぐるりと一周します。



 その途中で見かけた警告文。 ……いや、そもそもよくわからんキノコ、それもこんな街中に生えたものを取って食おうとする人なんてそうそういないような気がしますが… 好奇心旺盛な子供とかに対する物なのか…? の割にはフリガナとか一切ないし…



 外から見た月見櫓。こちらからだと水手御門が堀に直結している様がよくわかります。惜しむらくは内陸化の影響か潮の満ち引きでも関係あるのか、堀がほとんど乾ききってしまていて普通の門のようになってしまっていたことですが。



 城から道路を隔てて立っていた建物。案内板やパンフレットにも載っていなかったので城跡付近によくあるトイレやら倉庫やらの何でもない建物を櫓風味に味付けしたものかと思ったのですが、移築された報時鐘らしいです。



 城の裏の中学校の壁。なんかの記念で壁画などが描いてある(歌詞の右側にあったけど写真は撮ってない)あたりはお約束と言えますが、わざわざ校歌の歌詞まで外向きに堂々大書してあるのはなんかステキ。



 外から見た艮櫓。やっぱりふとましいというか、必要以上にピラミッド形な安定感ありすぎのシルエット。外から見える全隅に張りだした石落としと一層目のでっかい破風のなせる技、かなあ。



 高松駅に戻る。電車の出発まではまだ時間があるものの、店などが開いてる時間でもないのでコンビニで朝食を買ってホームで待機。なお、この際に四国フリー切符を購入。今回の旅行はさすがに特急祭りにしないと動きようがないがゆえ。

 

 次の目的地はすぐ近く、香川県丸亀市。特急しまんと5号で30分程度。しかしこの特急、2両編成なんですよね。鉄な人たちからすればなんだそんなこと、地元の方からすれば喧嘩売ってんのか的なところかもしれませんが、すげえな、四国…

 

 丸亀着。駅からも見えている方向に5分強歩けば、そこが丸亀城。小さいながら、江戸時代から残っている現存12天守の一つです。 …というか現存12天守、大きさ的にいえば過半数がでかくないというか小さい部類に属するのですが。

 

 大手門前から。前回の四国訪問時はここからしか眺めず、中に入っていないという中途半端な状態だったため本日再攻略。

 

 大手の二つの門も遺構のようです。門を入ってすぐに本丸へ向かう急坂があるので、日ごろの運動不足とこの日の睡眠時間3時間(inフェリー)を呪いつつ、頑張って登城。


 

 この城の見所は天守閣そのものよりも石垣群。今残っている区画は大した規模ではないものの、全山高石垣で固められています。天守閣が小さい大きいというより、山一つがさながら要塞塔のよう。

 

 厨くさいかもしれませんが秋に咲く花では一番好きなものの一つ。そういえば今頃がまさにこの花の時期ですね。

 

 ど根性… 尽きてもう死んでしまってるのですが、大丈夫なんでしょうかこれ。ここまでくると下手に撤去したら余計危ないんでしょうけど。

 

 天守。前述の通りこじんまりとして、装飾も質素め。一面だけ下見板が張ってないのは質素とかいう問題じゃない気もしますが。昔は付属建築物があったので何の問題もなかったのでしょうが、今は天守しか残っていないため板が張ってない部分も麓から丸見えなのがちょっと恥ずかしい(笑)。なお、連休中ということもあってかご覧の通り訪問客は結構多かったです。

 

 お約束の急な階段を上って天守最上階から。天守が小さいのは別にこれ以上の大きさのものは必要なかったんだろうなあ、などと思わせる見晴らし。左に讃岐富士(推定)、右に溜池が横たわる二枚目の光景などはああ、讃岐の国よのうと思わせます。

 

 城を下りながら、石垣と天守を同時に写しつつ。本丸まで行って接写するより、この二ノ丸あたりからの光景の方がいい感じかなあと。

 

 個人的に萌えた石垣二つ。前者は。上左で天守の前に突き出してるでっぱり、後者は二の丸か三の丸かどっちか。

 

 さて、駅に戻って特急しおかぜ7号に乗車。そして

 

 ごはん。基本旅行中は粗食で済ますことが多い私ですが、やっぱりこれだけ列車に乗るんだから一回は駅弁食べとかないと。というわけで、たこ飯です。たこうまー。

 松山まで向かうこの便は比較的長く乗っていることになるため、足りていない睡眠時間の補充に充てました。でもって、

 

 松山にて特急宇和海11号に乗り換え、次の目的地は伊予大洲。あれ? 愛媛で城といえば松山だけどスルー? と思われるかもしれませんが、松山城は高価値目標であるがゆえに第一次四国上陸の中学生時代に既にクリアーしているのです(あと高知も)。今回も再訪したい気は山々だったのですが、時間がなかったので涙を飲んで車窓から眺めるだけ、ということで。

 

 松山と大洲の間で見かけたSL。レプリカか本物かは不明。

 

 伊予大洲駅。ここから大洲城までは川を挟んで結構な距離があります。事前に調べたところバスが出ているようだし…… と思って現地入りしたところ、そのバスは一時間どころか一日に数本単位、もちろん私の到着を待ってバスがある、というはずもなく(笑)。まあ、歩いてもせいぜい20分から30分、道もわかりやすそうということで歩くことにしました。実はこの時点で、予定より電車一本分ずつ前倒ししていて時間的余裕は十分でしたし(もともと、だいぶ余裕を見た計画を組んでた:ってそうじゃなければ危なっかしすぎるか)。

 

 途中蓮根田を見てそういえば昔蓮コラとかあったなあとか思いつつ、肱川を渡河。

 

 あ、トマソン。

 

 城跡は三の丸どころか二の丸の、それも山にかかってるあたりまで民家などに侵食されていますが、二基の櫓がそんな状態でも町中に残っていたりします。これは堤防上(元二の丸)に残る苧綿櫓。

 

 これも遺構、だよなあ。多分。

 

 下台所。通気性を考慮してか床下が開いています。

 

 左の写真左端の坂から登る。


 

 この大洲城天守のオリジナルは明治時代に解体され、今の天守は平成に入ってからというかわずか5年前に復元(連結されている高欄櫓(欄干ついてる方)と台所櫓はオリジナル)されたもの。もっとも、復元とはいっても写真や模型などの資料が豊富に残っていたことや建築基準法の例外が認められた(関係役所との折衝にずいぶん苦労したようですが)こともあり木造・伝統工法での復元ができたため、他の鉄筋コンクリート造りの復元天守とは一線を画したものとなっています。



 よって、まだ仄かにヒノキの香りがする… ような気がするくらい真新しい。勿論他の古い連中にもこういう新築の時期があったわけで、そういう時代の城内の様子を想像できるというか、新しく作ってみたからこそわかることもあるよなあという意味でこれもまた貴重なものだなあ、などと。

 

 いやこれはさすがに昔にはなかったでしょうが。くだされ! にちょんまげもげるて。



 天守台の上段も積みなおされてるので、ちょっと色が違います。

 

 ちょっと下って。

 城からでて、もう一つ市街地の中に残されている三の丸隅櫓の方へ。ここは旧領主加藤家旧宅とともに今は公園になっています。

 

 寅さんの撮影にも使われたらしい加藤家旧宅。加藤家といっても清正… なわけはもちろんなく、七本槍加藤の地味な方こと嘉明… ですらなく、さらに地味な加藤光泰系。

 

 で、町中に取り残された隅櫓。 …なんですが、これ、随分傷んでるような。壁やら屋根やらボロボロっぽい。一応昭和40年代だかに一度修理されてるらしいんですが、その割には… あと、ネットで調べたところまだ加藤家の所有という話も見かけましたが、真偽は不明。

 

 帰りの肱川の上から。川に突き出した小山の上に聳える天守、という光景は犬山城を彷彿とさせるものがあってなかなかの景色。右は同じく川から見た苧綿櫓。

 再び20分程度かけて駅に戻り、もう一度宇和海15号に乗って今度は終点宇和島まで。

 

 対向車線にはドキンちゃん列車がいました。

 宇和島着は6時くらい、駅前の食堂で夕食としてホテルへ。ここで一泊して明日の朝宇和島城に行き、京都に帰還します。 …しかしほんと、列車に乗ってるか城跡見てるかしかしてないなあ。私は満足できたからいいけど(苦笑)。

今日の制覇日記 9月23日(水)



 7時くらいに起床してうだうだした後、ホテルをチェックアウト。目指す先は宇和島城

 

 桑折氏武家長屋門側から登る。

 

 もう9月も下旬だというのにアブラゼミやらミンミンゼミがうるさく鳴いている井戸曲輪からの登城道。さすが南国…… なのか、単に最近私がセミの声を聞くような場所に出てなかっただけで今でも全国的に鳴くとこでは鳴いてるのか。

 

 なお、この近辺で上から降りてきた、結構若いゴスロリお嬢さんしかも単独行動と擦れ違うという驚愕体験をしていたりします。世間では歴女が増えてるだとかなんとか喧伝されており、実際丸亀や大洲でも女性の二人連れや一人旅と思しき方々を見かけはしましたが、そのほとんどがBASARA世代どころかサムライトルーパー世代(つまり大概のお歳げふんげふん)であるなあ…… などと思っていた矢先の彼女の登場はかなり衝撃的でした。というか相当シュールでした。どれくらいシュールって、偶然居合わせた散歩と思しき老人が軽く呆然とするくらいに。

 

 気を取り直して、見えてきた天守閣。

 

 付帯施設もなく三層三階にしか過ぎないのですが、装飾の配置が絶妙なバランスをなしており、現存天守の中でも屈指の美しさを誇ると思います。こんな場所(失礼)になかったら、もう少し早く見に来たんだけどなあ…

 

天守台いっぱいに建ってるんじゃなくてちょっと余らせてるんですね。この天守は二代目(初代は藤堂高虎建造:全体の縄張りも高虎によるもので、不当辺五角形だとか)だからか。

 そして、ここに到達したことで私は現在日本に存在する、江戸時代から存続している12の天守をすべて制覇したことになりました。小3で城巡り開始、小4で彦根城を訪れて以来、足掛け15年程度ですか。我ながらよく飽きずにここまで続けてるものだなあ、この趣味。まあ、現存天守を制覇したからといってこの趣味が完結することはなく、これからも後世に復元された天守のある城、もともと天守なんかなかったところに後世無駄に天守建てちゃったしろ、石垣しかない城石垣すらない城というかただの平地になった城跡と、行きたいところはいくらでもあるわけですが。 ……といったことを、天守の三階で涼風に吹かれながらしばしぼーっと物思い。天守内部は障子がちゃんと入ってたのが珍しいなあ、などとどうでもいい感想。普通の城だと撤去されてることが多いんですけどね、障子。

 

 天守からの宇和島湾。

 

 いやいや、注記せんでも鉄砲には見えませんがなこれは。

 

 郷土資料館横にあった明治の法学者兄弟、穂積八束・陳重兄弟生家。あの人たち宇和島出身だったんですね。


 

 下りは行きとは別のルート、上り立ち門方面から。

 

 その途上に見かけた案内板。ダンジョン、は本来の意味からすればなにもおかしくはないですが…… 武家長屋門をSAMURAI GATEと訳すのは、それはなんか違う気がする…

 

上り立ち門前にあった、大津事件の時の大審院長児島惟謙の銅像。この人も宇和島出身なんですか。 ……なんか、明治の法律に良くも悪くも名前を残しまくった連中が集中して産出されてるんだな、ここ…

 これで宇和島城は終了。あとは撤収フェーズです。ほんとは愛媛県南部といえば紫電改保存館なんかもあったりするのですが、どうもあそこはバスで宇和島市から片道1時間かかるような場所、今から行っていては到底本日中に京都まで戻るすることは不可能… ということで、今回は本来の目的である城巡りに集中すべく割愛。 ……それにほら、紫電改はこの夏アメリカで程度のいいのを含め2機も見てきてるわけで、今この機会を逃さず見ないと死んでしまうとかそういうものでもないですしね?(単なるじっまーん)

 

 ちょっとだけ時間があったので城から見て駅の反対側の和霊神社には参拝。

 

 あと、神社の前の公園にはSL… C12の静態展示があったり。

 

 帰りは昨日と逆、宇和海(左)や瀬戸内(右)の海を眺めつつ(といいながら宇和海が見える期間は長くはない:列車名にかかわらず)、一路高松へ。

 

 多分予讃線沿い。なんかやたらSL多いなあ、四国…

 さて、高松に着いたのが4時前後。実はここから京都までの交通手段はあまり厳密には決めておらず、まあ神戸なり大阪なりへのバスがあるかどうか聞いてみて、どうしてもダメなら鉄道で帰るかー、などと思っていたのですが、幸い高松からダイレクトに京都まで行くバスにキャンセルが出て一席だけ空いてる、ということでそれに乗ることに。

 …そのように決めてからふと、「あーそういや連休中で高速渋滞しまくってんだよなー大丈夫かなー」などと思ってバスに乗ったところ、運転手さんがアナウンスで「このバスは本来20時前後には到着する予定ですが、連休中の渋滞により一昨日は23時30分、昨日は24時前後の到着となりました。今日はそこまでではないと思いますが、みなさまお覚悟をしておかれますよう、お願いします」という凄いアナウンス(「お覚悟を」〜の下りは演出ではなく本当に言っていた)が。お覚悟て……

 幸い結局予定の15分遅れという、「お覚悟」からすれば上出来の時間に到着してくれたので結果オーライだったんですけどね。そんな感じで、城巡り三昧の小旅行、終了。一日三城とか二日で四城はさすがに初めての数、だったような気がします。

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