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ばっくとぅとっぷ


今日の平泉日記 6月18日(土)


 今日は一旦南下して、いよいよ世界遺産へのカウントダウンが始まりつつある(どうやらもう決定したようで。おめでとうございます)元黄金の都・平泉に。



 一ノ関駅にて見かけた列車。スーパードラゴン! なにこの快速かっこいい!!

 ちなみになにがドラゴンかってこの列車が走っている大船渡線の愛称がドラゴンレール大船渡線、なぜドラゴンレールかって線路の形が龍が如くくねっているから、なぜくねっているかっていわゆる我田引鉄で路線建設の際に政治家があっちゃこっちゃいじくり倒したからだとか(参考:大船渡線 - Wikipedia)。なお、教えてくれたのは「鉄」な中高の後輩氏。感謝〜。



 うっかりドラゴンに乗っちゃったりしたら大変なことになる(1日1往復ですし)ので衝動を振り切りつつ、粛々と平泉へ。駅舎は震災被害でトイレなどが立ち入り禁止状態。ともあれ、天気がかなり心もとない(なんとか最後まで降らずには住みましたが、画面が暗いのは寛大な心を持ってスルーしてもらえると助かります)ですが、駅前のレンタサイクルでチャリ借りて、いざ。



 まずは源義経終焉の地・高館義経堂。衣川館跡ということで一応城跡… といえば城跡なのですが、どうもあの時代あたりまで遡る(そして後世の改修がない)といわゆる城跡の概念に含めていいのか悪いのか。

 とはいえ、ちょっとした高台にあってそのなかでもお堂がある一番高い小平坦地と一段下がったところに平坦地が二つ三つ連続している感じは、小さくてシンプルなものの確かにまごう事無き城ではあります。むしろ、どちらかというと平地にそれなりの面積で造営されている、といったイメージの「館跡」という言葉からは程遠いようにも思えたり。やっぱり亡命者を匿う都合上、手持ちの物件の中でもこじんまりとしてはいるものの防御力が高めなところをあてがった、といったところでしょうか。あるいは麓には普通に大きい館があって、この丘の上に離れ的というか詰めの城的な建物があった?

 近年ではそもそも「衣川舘跡」を別の遺跡(接待館遺跡)に比定するという説もあるみたいで、「館」ということに重点を置くならそっちの方が説得力があるかなあ、という気もします。同時に、弁慶が最期まで行く手に立ちふさがって主君の最期までの時間を稼いだ… といった光景にはこちらの山道のほうが相応しいよなあ、という気もしつつ。

 …あとどうでもいいんですけど、この文章を書くためにぐぐって岩手県の埋蔵文化財センターのサイトとか見てたら平泉関連の案内担当キャラがなんかとても妙な輩だったのですが。誰だお前は。



 脇道から戻って、堂内に祀られるよっしー。「第一期はここで終わりだけど、実は同時にここから第二期、世界編が始まるもんねー」とか、そんな不穏当なことを考えているわけではないはず。 …多分。



 高館よりの衣川の風景。やっぱ暗いなー。この日が日程中一番天気が良くなかったんですよねえ。まあ、これくらいの天気のほうが中尊寺あたりは芭蕉の句っぽさが感じられてよかったともいえますけど(実際五月雨食らうのはそれはそれでいやとして)。



 資料館というか展示室にあった仁王像。なかなか味わい深い素朴な風をしています。このあたりの古い文化によるものか… ってこれで京都やら関東から運ばれてきてたりしたら笑いますが、自分を。



 なんか上で次の目的地すでに書いた気もしますが、おそらく平泉のメインディッシュ、中尊寺。大きい寺ならよくあることってかむしろ当然のこととして、山一つがまるまる寺域で中にお堂が点在している感じ。



 …というわけで、例のアレまで結構歩きますね… だいたい片道20分くらい?



 参道の各地にこういったお堂が点在しています。これは一番最初に遭遇する弁慶堂。



 本堂。その名のとおり本来はこの寺のメイン建物のはずですが、結構あっさりスルーされるのは寺内に凄いものを抱えているがゆえの宿命か。 …まあ、所詮明治に建てなおされた建物ですしね。



 こわっ! ってかなんか絶望先生的な目だなおい! …どうやら、このお堂では目のお守りを売っているようです。うちの一家は私含めて目がほぼ全滅なので父母私妹分、まとめて購入。弟は悪いは悪いけどそれほどでもないので抜く。 …決して弟が嫌いなわけではなく、ここはお守りにでも縋らなくちゃいけないあとの4人が末期的だということで。



 宝物庫。2000年新築のでっかい建物。 …こういうでっかくて新しくていかにもコンクリート、的な建物が新造されるのを見るにつけ、やっぱり寺ってどこか「空気読まない」ところがないではないよなあと思わないでもなく。ただその一方で、木造が主流であるがゆえに一体この国では有史以来どれだけの文化財が文字通りの灰燼に帰してきたのだろう、と考えると、新しいいい素材があるならそれを使って長年保たせるというのも決して間違った方法論ではないよなあとも思うんですよね。寺に限らず再建された城なんかを見ててもいつも考え悩むところですが。

 まあ、この建物の場合あくまでも入れ物にすぎない展示・収蔵施設ではありますから最も重視すべきは防火・防犯・温湿度管理といった実用的機能でしょうし、あんまり深く考えずに「おーごっついなーよほど儲けとるんやなー」程度に笑いながら見ておくのがよいのでしょう。というわけで中にはいってしばし仏さんを拝んで穏やかな気分になったりしつつ。



 上でぐだぐだとわけわからんことを書いてしまいましたが、中尊寺の場合もう一つ無粋とも言われかねない展示・収蔵施設があったりするんですよね。というわけでこの寺の代名詞ともなっている金色堂は鉄筋コンクリートの新覆堂によって保護されており、写真撮影ももちろん不可。その姿は現地に行った人でしか確認できないのでした。一応この写真でも開いた扉のからうっすらと金の光が漏れている… よう、な……

 そんな金色堂ですが、ただ外側に建物が建てられているだけではなくガラスケースの中に入っており、「建物」、というよりはどこか「博物館の展示品」といった印象を受けました。「カテゴリー的にはガードされる必要のないもののはずなのに鉄壁のガードを受けている」という点で沖ノ鳥島とかふと連想してしまったり。

 しかし同時に、「ああ、これはしっかりガードしないとすぐ傷んじゃうよなあ」というのも一目見て納得できました。想像していたより遙かに金ぴか。暗い建物の中にあるせいか、同じ金ぴかで有名な我らが真首都の金閣よりもこころなしかその輝きが強く感じられる、ような。例えば同じように最初は金箔が塗られていたはずの仏像などにしても、一応建物の中に安置はされていてもいつの間にか塗りが剥げてしまっていたりするわけで、そりゃこんな繊細なものを風雪激しい雪国の山の中にそのままおいとくわけには行かないよなあ(そういえば金閣はなんでノーガード戦法を貫いていて平気なんでしょう。気候風土の違いなのか、腐っても首都にあったがゆえ適宜修理などの手を入れてもらいやすかったのか)。

 あと、個人的には金にもですが柱などの螺鈿の装飾に目を奪われました。アフリカゾウの象牙まで使われてるとか、当地で算出されて自給できていた金をふんだんに使ったことよりもある意味では凄いことのような。

 …あ、そういえばもうひとつの金色堂といえばな名物、藤原三代のミイラについては宝物庫でも触れられてませんでした。もちろん無思慮に観光資源としてアピールすべきものでもないのは当然ですが、ちゃんとあのお堂の中に安置されてたのかなあ。



 なお、ちなみにこれが1962年、新覆堂に役目を譲るまで金色堂を守っていた旧覆堂。これ自体が室町時代の建物で重文。今は少し離れたところに移設されています。建立から数十年で既に何がしかの保護施設が作られ、以来数度の改良改築を経ての姿が今の鉄筋コンクリート+ガラスケースの要塞のようです。

 …逆に言えばこんなの野外に建てても暫くしたら何がしかの保護対策が必要になることは少し考えたらわかるわけで、そういった可能性に気づかなかった、あるいは気づいていても敢えてガン無視したのどちらにしても建立者の藤原清衡という人がある意味相当の大物であったということの徴表にはなるかもしれません。後者についてはさらに荒れるに任せることを宗教的な理由などにより肯定した、普通の建物ならそうだろうが浄土パワーにより守られると判断した、これをメンテナンスできなくなるほどに自分たちの勢力が衰退、ましてや滅亡してしまうことなんてあるはずがないと自信を持っていたといった可能性が思いついたりします。この中だと一番最後のパターンがおそらく最も現実的で、かつ「歴史の皮肉」とかそういうわかりやすいオチに持っていくことが簡単かと思われますが、真相は歴史の闇と黄金の彼方。



 中尊寺のみるものラストは白山神社能舞台。いいですねえこういう雰囲気。こう、巫女さんがここで舞ってるようなゲームの一シーンをもうそ……



 ……全力で釘刺されました、というか妄想の内容自体がそれ以前の問題か。 

 次は毛越寺(もうつうじ)。ここは建物がどうこうよりはその浄土庭園が有名… …って実は調べたら門が元・一関城の大手門だったとな? くっそ、完全にスルーしてたぞ…



 庭園に関しては正直見所も撮影ポイントもよくわからないので限り無く無意味に近い写真しか撮ってないのですが(庭園に限らないという点については目を瞑れ)、静かな水面を見てると心が落ち着く、というのは確かです。この風景が浄土なのか、というのはやっぱりよくわかりませんが。

 まだ時間はあったので、平泉中心部から離れてチャリで約6キロほど田んぼの中の道を疾走。



 達谷窟毘沙門堂。坂上田村ゆか… げふんげふん、坂上田村麻呂建立と伝えられる寺。仙台城にあったらしいものとはまた少し違いますが、懸造りの建物。清水寺的に支柱の上に立ってるところもですが、この凸凹した崖の形に合うようにぴったりと建物が作られている接合部のあたりがいいなあと思うのは私だけでしょうか。こう、自然の曲線だけでも人工物の直線だけでもなく、その二つが無理矢理にでも融合してるところにえもいわれぬ妙味を感じるというか。この場合は人工物のほうが自分の主張を曲げて一部自身を切り取っている感じ。

 …あ、今気づいたけど城も特に中世山城なんかだとそういう面がありますね。そっかー、今までなにも考えてなかったけど、私はそういう思考で動いてたのかー。 …ん? でもそれってひょっとして兵器少女とかストパンとかそういったあたりまで説明しうる話、いや極論すれば兵器武器やごっつい甲冑といったものと少女の組み合わせにまで発展しうるか…?

 …完全に読んでる人置いてけぼりの自分語り思索に入りかけてました。いかんいかん。そういえばうぃきぺの写真などだとお堂の上の方が赤くないですね。最近塗り直されたんでしょうか。

 なお、この寺は残念ながら世界遺産からの選考では弾かれてしまったようです。 …まあ、仕方ないかなあとも思います。いくらなんでも中尊寺・毛越寺などと同テーマとしてまとめてしまうのは、少し無理が(その上この建物自体も再建ですしね)…



 毘沙門堂横の岩肌に彫られた岩面大佛。なんか源義家が前九年・後三年の役の戦没者供養のために馬上から弓を射て彫ったとか。すげーな八幡太郎。さすが源氏の棟梁(無理です)。

 平泉はこれで終了。盛岡まで普通、盛岡から秋田新幹線で秋田に。そして、これにて東北全県制覇完了。日本全国も残すところあと沖縄、山口、鳥取の3県を残すのみとなりました。

 …沖縄は距離がどうこう以前に一人で行くのが一番寂しい県だから誰か連れと行く機会を待つとして… 山口と鳥取か… また日帰りに遠く長期旅行に短い中途半端な県が残ったものだなあ……

 とりあえず、そういうごく個人的な感慨はおいておいてちゃっちゃとやること済ましましょう。というわけで日没とあともう一つのタイムリミットと競争して久保田城へダッシュ。



 例によって公園化して美術館などの文化施設が建っていますが、この堀はかなりの広さ。



 土塁も木が植えられていたりして全体像が把握しづらくなっているところはありますが、こういった門跡のあたりはなかなかテクニカルな作りになっているように思えます。石垣を使わずに土塁だけで構成されたクランクとか、これはこれで面白い。



 本丸表御門(復元)。佐竹の家紋といえばこの扇ですよね。



 本丸新兵具隅櫓。けっこう特徴的なスタイルをしているものの、写真を撮るにはどの角度からでも木が邪魔(笑)。

 ホテルに戻ると速攻でPC起動してLANケーブル突っ込んでスタンバイ。そう、この日はニコニコ動画でまどか☆マギカの一挙放送があった日なのでした。総視聴者数100万人を超えたという狂気の放送、その中には本拠から遥か離れた秋田のホテルで、本放送しっかり見てたくせに改めて見ていた一人のアホの姿も混ざっていたのでした。 …どうしようもないなこいつ。

今日の酒田日記 6月19日(日)


 さて、見物日程としては最終日。今日は秋田から特急いなほで酒田へ向かい、その後山形のホテルに入って明日の飛行機撤収便に備えます。

 なぜ最後の目的地が酒田かというと、恋ではなくというエロゲの聖地巡礼。なお不定期人生作業日報(仮)さんの記事、先行研究を参考にさせていただいています。



 作中もっぱら東京への交通手段として登場する「いなほ」ですが、私は秋田からの進出手段として利用。



 酒田についた時間にはなんかちょうどC57(SLばんえつ物語?)が停まっていて凄い人だかりでした。前に立ってるのはキャンペーン舞妓さん。

 …さて、いよいよ聖地巡礼ですが、プレイしたひとだけニヤリとしてもらえばいいネタ(所詮1エロゲですからプレイ人口自体さほどででもないでしょうし)でもあり参考サイトさんに行けば画面写真も載せておられることですから、比較のためのゲーム画像はそちらを見ていただくとしていつも通り私が撮った写真だけ載せていくこととします。

 …決して、比較用のイメージキャプチャはしたものの適当にやってたので立ち絵が入ってたりダイアログウィンドウ消すの忘れてたりしたことに今更気づいて、かといって今から改めてキャプチャし直すのが面倒くさくなったとかそんなことはありません、ありませんよ…?



 改札を出てすぐがいきなり聖地。駅の背景ですね。差異は自販機の有無くらい。



 駅前の光景。右端の方に見える建物群が微妙に変わっています。



 通学路。駅から出て1本目のでかい通りを川側に向かって進んで橋を渡った上流側だったはず。写真はやや川側に寄せすぎてますが、はみ出てる部分は建物群になっていて民家の庭と生垣風の背景とはかなり違っていました。



 作中の映画のロケ地、山居橋。観光地だけあってここはほぼそのまま。



 この橋の袂っぽい背景もありますが、右半分の町並みはほぼ別物。



 非聖地(無茶苦茶な表現である)だけど観光名所の山居倉庫。



 川沿いに日和山公園に向かう際に見かけたイカ釣り漁船。もちろん非聖地。おお、ほんとに電球いっぱいぶら下げてるんだなあ。



 扶ルートクライマックスの舞台になった日和山公園の売店付近。公園の中にあるのかと思ったらほぼ出入口に位置してるんですね。



 作中には登場していないものの、初詣に行ったとかそういう話が出てきた日枝神社。売店の真向かい。日枝神社だけあって山王鳥居。



このあたりは「おくりびと」の聖地でもありってか一般的にはそちらのほうが格段にメジャーでしょうけど私は見てないので不知。



 再び聖地、中通り商店街。黒い獅子が目印。右奥の建物に色など微妙な違い?



 獅子アップ。



 せっかくなのでついでに城巡りもしておきます。今は酒田東高校や亀城小学校などになっている亀ヶ崎城跡、写真は高校敷地内に少しだけ残っている土塁。元は大宝寺氏(信長だとなんか脳筋弱小勢力扱いで出てきたりしてたような)の東禅寺城で、江戸時代にも庄内藩酒井氏の支城として存続。



 あと、一致度の高い構図はちょっと見当たらなかったりそもそも撮影禁止だったりするものの確実に主人公の家のモチーフになってるはずの本間家旧宅。日本最大の地主にして屈指の豪商。 …なるほど、ボンボンなわけです、主人公(笑)。

 内部では前述のとおり背景か? という場所は少し見当たらなかった(解説つきでずんずん進んでいくのでじっくり眺められなかったというのもある)のですが、子供部屋の小襖に油彩で描かれた日本海海戦の襖絵には笑いました。しかも無駄に高名な画家の手になるものだという(笑)。毎度ながらこういうのが許されたというか普通であった時代というのは、その、想像がつきません。

 聖地巡礼を完遂するならば日本海を越えて飛島に渡らねばならないのですが、明日朝の飛行機で関西に帰還するため今日中に山形に入らねばならない関係上、当然ながらそれは無理。今回は亮輔ルートだったということにしておきます。

 …その割に公園行ってるよな? ……うるさい黙れ、OBルートで学んだ一脚の正しい使い方を実践するぞ?

 というわけで、鈍行で余目→新庄→山形とやたら時間をかけて移動。温泉(から湯を持ってきて大浴場で沸かしている)つきのホテルでじっくり休んで、いよいよ明日には本拠に帰還します。



 おまけ、秋田土産。自らのブランドだけで生活必需品を全部まかなえることを目指しておられるかのごとくあらゆるものを痛化しておられるあのお方のイラスト入り。

 ……うん、何も言うな。わかってる。ついネタ精神に負けて買ってしまった私が、自分自身に対して色々言いたいことを抱えているから……

今日の帰宅日記 6月20日(月)


 最終日。朝一のバスで空港に向かわないといけない関係上、できることは特に無し。おみやげのさくらんぼだけ買っていざ本拠へ。



 当然といえば当然ですが乗ったのも行きと同じ機種なので特筆すべきものは無し。



 あ、ヘリがいる。県警ですかね?(追記:朝日航洋という会社のユーロコプター エキュレイユであるとのこと。メールフォームでご教示いただいた無記名さん、ありがとうございます)



 雪が残る山々等を眺めていましたら、あっという間に伊丹に着いてしまいました。

 はい、これで今回の旅行は終了。意外と長旅だった、というか普通に無茶苦茶だよなあ。北米進出戦を除けば今までの旅行の中でも最長記録だったりするぞ、おい…

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