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ばっくとぅとっぷ


今日の東信日記 11月23日(金)


 久しぶりの3連休、というか大破損傷から復帰後初の3連休なので少し遠出してみましょう。目的地は長野県東部、上田、小諸。あと交通条件的にそこから近いかというとかなり微妙ですが、今まで駅構内やPA・SAから出たことがなかった山梨県も潰す方向で。



 真首都から新幹線で名古屋まで出て、そこからワイドビューしなので篠ノ井まで→しなの鉄道でまず上田へ。連休初日だけあってワイドビューしなのはけっこう混んでました。ちなみに真首都二条を5時56分に出て上田についたのは10時21分。実は東京まで出てからあさまに乗ったほうが20分くらい早く着くのですが、それもなんか風情がないよなあと思ってこのルートを選択。7,000円くらい高いし新幹線づくし。



 上田到着。 …ってフライングで既に「あの」関係のものが…



 ともあれ、上田といえば真田、真田といえば幸村で幸村といえばBASARAな今日この頃ですよね。 …信繁? 誰それ?



 最近はどこの有名城郭にもいる感じのおもてなし武将隊はここにも。



 駅前の唐揚げ店にて。十勇士の中で猿飛でも霧隠でもなくあえての筧十蔵というのは渋いですね。まあ、好みの問題ではなく何店かの店が一人ずつ割り当てられて担当する、という可能性はありますか。 …その場合、誰を引き当てるのが一番割りを食ってることになるのかなあ。由利鎌之介?(偏見)



 概ね予想通り、上田の町は六文銭であふれていました。



 駅から上田城に行くまでの間にある、我らが真田のお兄ちゃん信之以来の上田藩主居館跡。1790年に再建された門と塀、堀が残りますが、今は県立上田高校の敷地。実は大学時代の友人がここの出身。ジャージに六文銭の校章(なのか)が入ってるのを見せてもらって羨ましかった記憶があったりします。



 積み方からして石垣は後世の積み直しですね。





 城跡へ。二の丸大手下堀跡遊歩道はかつての上田交通真田傍陽線の廃線跡。



 コンクリート橋には痕跡らしき金具が。



 橋の上から。堀を埋めて線路に転用した例といえば山形城などでも見た覚えが。



 本丸の堀。かなりの高低差。土塁といっても近世城郭になるとさすがに大規模になりますね。



 南櫓、渡櫓門、北櫓。



 渡櫓門は平成に入ってからの復元。南櫓と北櫓は明治維新の時に民間に払い下げられたものが昭和期に復元移築されています。払い下げられてどういう用途に使用されていたかというと、なんと遊郭。 …かつて城の象徴だった建物を使った遊郭で明治期の人たちがどんなプレイをしていたのかとか、想像しだすと色々とこう、広がっていきますね(ゲスい)。



 真田石。昌幸が築城の際に据え、信之お兄ちゃんが松代転封の際に父の形見に持って行こうとしたがどれだけやっても動かせなかったという伝説が残ります。 …真田時代の上田城は関が原後に破却され(あれだけ徳川勢を翻弄したんだから当然といえば当然)、今残っている構造物は仙石忠政の時代に築かれたものだったりするんですけどね。こまけえこたあいいんだよ、ということでしょう。
 あ、そういうわけでお兄ちゃんが上田に入った時には城がなかったのでわざわざ居館を建てなきゃならなかったのでした。



 城内に鎮座する、真田親子を主神に仙石・松平の歴代藩主を祀った真田神社。明治時代に建立された際には統治期間が長かった松平氏がメインの「松平神社」だったのですが、こまけえこたあいいんだよ、ということでしょう。恐るべし、真田の勇名。

 なお、真田親子といっても例によって昌幸&信繁(幸村)のことを指します。 …ああ、お兄ちゃん…
 確かにお兄ちゃんが上田に入った時には上田城は破却されていて, 上田城主としてカウントできなかったりはするんですが、それでも…



 境内にあった巨大幸村兜。



 真田の聖地に痛絵馬がないわけがない。 …けど鷲宮の人たちはあんまり関係ない気もするw



 抜け穴伝承のある井戸。水場があれば小銭を投げ込むという慣習それ自体がもともと謎ですが、ばっちり蓋がしてあって投げ込みようがなくてもあえて投げてみる、となるともうなにがなにやら。



 なんで酒樽がこんなところに鎮座してるんだ、と思ったら茶室に転用されているようですね。これもまた侘び寂び?



 西櫓。この櫓は払い下げられず、寛永時代の創建当初からこの位置に建ち続けています。



 上田城の櫓は3つとも長野県宝に指定されているとのこと。国宝ならぬ県宝なる概念は他の県であまり見かけないような気がしますが、長野県独自のカテゴリーなんでしょうか。



 本丸。前述のとおり今の上田城は仙石忠政の再建になりますが、城普請は忠政の死によって未完に終わっているとのこと。未完とはいえ、櫓7つに城門2つが立ち並ぶ姿はなかなかに壮観だったことでしょう。



 秋深し 上田は城も 赤備え

  …仙石兵部? 誰ですかそれ



 枯山水の庭っぽくてちょっと気に入ってたりする一枚。



 城内はこんなところで。この城の見所はどちらかと言えば城外南側、かつては尼ヶ淵であった広場から見上げる構図でしょう。というわけで下から見上げる西櫓と南櫓。なるほど、断崖の上に立地していた城なんだなあと実感できます。



 南櫓下、中段の石垣は雨で崩れて積み直されたもの。色合いとか石の大きさに若干違和感がないではないですが、積み直しの際に変わったものかどうかは不明。中央、台形状に崖の地肌が露出している部分があって不思議な印象を与えていますが、これは当時から。



 2基ともおさまるように。

 上田城はこれで終了。土産物屋を見て回ります。



 レゴ… ならぬナノブロックで再現された上田城。家康(右奥)秀吉(左奥)謙信(左から2人め)あたりはまあ上田城に縁がまったくないとまではいいませんが、信長と政宗(幸村の左右)、なんでお前らこの城におんねんw



 なんでしょう、この「お、おう…」としか反応できないような企画は… そして例によって嫁と弟だけっぽいという。お兄ちゃん…



 てっきりBASARA一色かとおもいきやBRAVE10もそこそこ展開してました。 …そんなアニメもあったなあ… 



 サマーウォーズもこっそり。



 版権キャラだけじゃなくオリジナルキャラの幸村(なんかおかしい)もいますが、



 個人的にはこっちのほうが好きかな。



 紀州九度山でニート生活を送っていた幸村たち、真田紐の内職以外にも茶の栽培にまで手を染めていたようです。そこまでしてるともうニートじゃない気もしますが。 …まあ、それでもお兄ちゃんに酒たかったりしてるしなあ…



 最近は天守閣だけじゃなくてこういう城のプラモもあるんですね。



 萌えキャラ化されている小松姫と諏訪御料人。小松姫というと某やる夫スレの影響でバラライカの姐御のイメージになってたりもしくは殿といっしょのイメージになってたりするので壮絶な違和感。諏訪御料人は… なんかこう、ヤンデレキャラだというイメージが頭の中にあるのですがそういう像はもう古いのでしょうか。つうかどっちにしてもスク水着せたるなやw 息子の勝頼が見たらどんな顔をするかw

 …とかいいながらこまっちゃんと諏訪姫宴バージョン買ってたりするんですけどね。スク水はさすがにどうかと思ったのでってか時間が経ったらなんのキャラかわからなくなりそうだったのでやめとく(笑)。



 駅に帰るまでの路上にて。現在マンホール遁の術の実技中であるようです。いや、どっかのオブジェとかから人物名だけ流れてきたんでしょうけど。



 行きの時には気づきませんでしたが、駅にもこっそりサマーウォーズネタが仕込んであったんですね。



 ともあれ再びしなの電鉄で小諸に移動しましょう。お、電車来た。











 移動スケジュールをあの夏で待ってるラッピング電車の運行時間に合わせて組み立てるのは基本ですよね(笑)。ラッピングとしては前面や内装は手を加えず、側面や窓にキャラがいるだけなのでやや控えめ、でしょうか。私が乗ったことのあるけいはん!のけいおん!!あたりが気合入りすぎで比較対象として不適切だ、という可能性も高いですが。にしてもやっぱり柑菜可愛いなあ。





 というわけでやって来ました小諸。もう秋というか限りなく冬に近い季節ではありますが。駅のホーム、待合室、出てすぐの広場と到着早々にお出迎えを受ける。



 本陣主屋。なつまちおもてなしサロンがありますが、既に冬季休館モード…



 とりあえず観光案内所で舞台探訪マップを入手。



 とはいえ私の本懐は舞台探訪よりも城巡りでありますからして、まずは鉄道によって他とは切り離されてしまった小諸城大手門からまわるのです。この建物も上田城の櫓のように民間に払い下げられ、料亭などとして利用されていました。その際に施された改造の修復工事が終わったのは最近。



 …本懐、とかいいましたが今回の場合小諸城そのものが聖地なんですよね(笑)。懐古園入り口こと小諸城三の門、「あの」アングルで。



 正面からも。穴城の異名のとおり、確かに門に続く道が下り坂。



 それアピールになるんかいな… と思わなくもない仙石秀久プッシュですが、最近だと漫画になってたりするから見直されているんでしょうか、ごんべっさ。というかこの看板自体がその漫画とのコラボの名残のようです。





 ここにも巨大ポップが立っていて、交流ノートがあって、そしてうっかり記念入場券を買ってしまう。



「あの」案内看板。



 このあたりの石垣は火事だったか水害だったかで一度積み直しているらしいのですが、その際に「以前のものより大きい石で積み直しています」との解説が。 …大きいことはいいことだというのはある種の真理かもしれませんが、文化財の修復であえてそれをやっちゃうのはかなりいけないような気が…



 郷土の偉人のレリーフが嵌めこんであったり読みにくいけど若山牧水の歌が彫りこんであったり。おまえら、石垣で遊ぶな(笑)。



 二の丸跡前でも「あの」アングル。



 5話より。



 黒門橋。これも5話か。



 紅葉谷の名の通り、綺麗な紅葉でした。



 またしても5話。



「あの」アングルばっかり追求していてもしゃーないので。コケがいい味出しています。



 天守台。野面積みの荒々しさと全体の形の不規則性が魅力… って、後者はちょっと孕んできているからだというような気も…



 それよりなにより四隅部分の透けっぷりが不安感を煽ります。算木積みじゃなかったらこんなもん、なの、か…?



 本丸石垣。この微妙に角度ついてるあたりがたまらん。



 城の裏は空堀というか崖というか。



 城内にある動物園に向かう吊り橋。城跡の動物園、ほんとに多いなあ。やっぱり籠城時の非常食を常日頃から備蓄してるんだとしか考えられない(笑)。



 で、吊り橋になっているということはやっぱり崖なのです。



「あの」展望台こと水の手展望台。



 小山敬三美術館に向かう橋。これも舞台でしたっけか。



 その橋から水の手展望台。11話。しかし、こうして見ると小諸城、いたるところが崖ですね。穴城というのはミスリーディングで崖城とでも呼んだほうが適切なような気がします。



 本丸に戻って。石垣に登れたので天守台の近くまで寄ってみます。



 …ほんと、おっそろしく不安になるのですが、この天守台の隅っこ…



 秋の信州の夕暮れ。



 本丸跡に建つ懐古神社。冷静に考えると凄い名前に思えてしまいますよね10話。



 当然のように。



 最後に5話のアングルで神社前を撮って城をでましょう。これから町の方も回ってみますが、日が完全に没しきるまでにどれくらいいけるかな…



 なつまちメニューを出すお店。なんかスナックっぽいのですが…



 相生町交差点、10話。



 相生町1-2丁目、1話。アーケードは撤去されたようです。



 OP、相生町2・3丁目交差点。道路の真中からのアングルはさすがに無理。



 舞台ではないけれど島崎藤村が使った井戸だとか。有名人になるとなんでもないものでもこういうふうにして残されてしまうものなのです。今までで一番ひどいと思ったのは会津若松の「野口英世初恋の地」でしょうか。しかも実らなかったという。そっとしといたれや。





 舞台探訪に戻って、8話、OP、12話2つ。



 なんでもあるのなー。





 OP、ほんまち町屋館みはらし庭。町屋の壁にでっかくタペストリー、という光景はなかなか衝撃的です。





 このあたりで完全に暗くなったので、珈琲こもろさんで早い夕食に。「あのパスタ」「DAINAMAITOドリンク」。





 店内の様子。



 18時少し前に駅に戻る。駅前には綺麗なイルミネーションが点灯しており、ああ、そういう時期なんだなあと今更。今年一年も早かったなあ。実際に今年は行動可能だった期間が数ヶ月も短かったからほんとに早かったといえるんだけど(笑)。



 駅構内の野菜直売所。標高1,000mにどんな意味があるのかはよくわかりませんが、とにかくこう断言してしまえるというほどには顕著な効果があるのでしょう。



 うっかり記念入場券を買ってしまった(本日二回め)。



 ここからは小海線に乗って小淵沢まで30駅。よくよく考えるまでもなくわりかし狂った行程ですが、私の旅行ってだいたいそんなノリなので深くは考えないことにします。



 …小海線、こんなイメージキャラクターがおるのか… なんか信州って色々すげえ…



 ローカル線完乗の旅なので窓の外を眺められたら最高なのですが、あいにく夜なのはちょっと残念。国立天文台のパラボラアンテナとか、見えたら面白そうなものもある路線なんですよね。JR最高駅、野辺山駅なども通りましたが、駅名標を撮るので精一杯。



 小淵沢からはスーパーあずにゃんで甲府へ。ひらがなのあずさだからもっと適したアイドルのあの人がいるだろうと思うかもしれませんが、そんな列車乗ったらどこに連れてかれるかわからないのであずにゃんで。



 21時すぎ、甲府到着。駅前には武田信玄終身名誉甲斐皇帝の銅像が。武田帝国の終身名誉皇帝であらせられますからして、銅像も堂々ライトアップされているのです。ビバ武田家! ハイル武田家!

 …いや、実際に甲斐が強国として輝いた期間って振り返ってみればそれこそ信玄・勝頼時代くらいしかないわけで、そういう意味では神格化されるのも当然ではあるのですけどね。それ以前だと山がちで生産力は低いし国内勢力は四分五裂して身内で延々闘争してる修羅の国状態だったわけですから。江戸時代に入るとある時期からは幕臣の左遷先扱いになりますし。

 そんな事を考えつつ駅前、甲府城を眼下に見下ろすホテルに投宿。明日は武田帝国の城を回ります。

今日の甲斐日記 11月24日(土)


 武田帝国の朝。時間の都合により7時には宿を出、いきなり武田帝国の裏ダンジョンこと要害山城へ早朝登山をしかけることに。



 市街からは少し距離があり、朝早いということもあってここはタクシー使用。麓にあるホテル要害の入口付近に登山口があるので、ホテル名を伝えるのが一番簡単でしょうか。



 登り始めてからしばらくするとある史跡境界の碑。ここまでにも登り口すぐあたりから石積みが散見されますが、城の遺構ではなくて後世に道を作った時とかに積まれたものっぽい。



 はじめに見える土塁跡と竪堀跡。土塁跡はともかく、竪堀跡は草に埋もれて確認が困難。一応このあたりか、と思われる凹みは見つけましたが、写真で見るとやっぱり訳がわからない(苦笑)。



 第1の門跡とその前の石積み。



 この道の曲がり方、まさしく枡形。



 武田不動尊が鎮座する不動曲輪。不動尊自体は江戸時代に置かれたもの。





 不動曲輪の一つ上の帯曲輪。かなり広大。奥の方に井戸があり、隣の祠に祀られている諏訪明神にちなんで諏訪の水と呼ばれていたとのこと。祠は見ての通り崩壊してしまっています。



 城中最も堅固とされる第三の門跡(門跡は全部で8)。石垣を多用した防御というのは武田の城のイメージからすると意外な感じもありますが、この城は武田滅亡で廃城になったわけではなく1600年まで存続、加藤3号機こと加藤光泰による改修なども施されているようです。全体の縄張りは別としても石垣などはある程度豊臣系の技術が入っている、のかもしれません。



 それはそれとしてもこの各門ごとの枡形連続の執拗さは驚異的だと思います。





 本筋から外れた曲輪に通じる道を固める石垣。



 なにやら厳重な土塁に固められた門だなと思ったら、この先が主郭でした。



 主郭。非常に広い。



 主郭を囲む立派な土塁(石垣入り)。



 終身名誉甲斐皇帝生誕地の碑。この城が基本的に表舞台に立つことのない(あったら負け戦である)詰めの山城のわりに知名度があるのは、やはりこのお方が個々で生まれたという点が大きいのでしょう。ちなみに信玄公産湯の井戸はこの城の中ではなく山麓の積翠寺にあります。 …おぎゃあと声を上げた瞬間に家臣が背負って山麓まで駆け下りたのでしょうか。それとも、声を上げた瞬間に狼煙が焚かれて寺に待機していた家臣が水入りの桶を担いで猛然と山道を駆け登っていったのでしょうか。いずれにしても家臣たちは大変です。
 …あらかじめ運んでおいてちゃんと沸かしてスタンバイしていた? そんなつまらん可能性しらんわ。



 主郭内には庭園まであって庭石として使われた石が今も散在していると解説板にありましたが、この石のことでしょうか。とりあえず手前の小さい石に座っておにぎりの朝ごはん。



 一服後、さらに進みましょう。搦手から先にも遺構があります。



 搦め手を出てすぐのところにある竪堀。かなり大規模で石垣による補強入り。補強の入った竪堀とかあまりみないような。



 門跡を越えて更に下ったところにもう一本、これも石垣の補強入り。大手側は枡形の連続と曲輪が主な防御構造でしたが、搦手は竪堀2本でスパっと分断しているような感じ。





 この門跡と石垣、堀切をもって城域は終わり。この先の尾根道をずっといくと支城、熊城に出られます(片道40分くらい)。実は足を伸ばそうかと考えて行路の8割方くらいまでは進んでみたのですが、探索して撤収する時間を考えるとスケジュール的に活動限界時間を突破しそうだったので泣く泣く退却しています。 …引き返す直前に熊の糞っぽいものも見つけたりしたわけですが、引き返さず突っ込んでたら、ひょっとして…



 一応行き方。要害山城からひたすら尾根道を歩いていると道標があるので右(深草観音)方面へ。更にしばらく行くと土管が立ってるので本道から南側の獣道に進路変更して急斜面を降りていくとたどり着ける、らしいです。私は獣道に入ってしばらく進んだところで断念。あとで調べたんですけどこの土管、赤か緑のつなぎを着て髭を生やしてさえいれば上に立って↓ボタン押すだけで熊城までショートカットできたんですよね。たまに変な食人植物が生えてきて1機減るか小さくなってしまうかするみたいですけど。いやぁ残念残念。



 下山途中で見かけた、いかにも見張り台にしてくださいといわんばかりの大岩。



 紅葉見たらとりあえず撮ってしまう症候群。



 要害山城を下山後、躑躅ヶ崎館に移動。今は武田神社になっています。甲府の中心部からはちょっと北に離れているんですね。同時に要害山もすぐ裏山なのかと思ったらちょっと距離がありました。まあ、あまり直近だと戦時の避難先としてどうなんだろうというところでもありますか。



 さすが武田の本拠地だけあって神社になっても大きいです。堀の幅もかなりのもの。単純に規模でいうと元米沢城の上杉神社に勝っている、ような。いやまあ上杉のほうは大幅減封食らったあとの本拠地ですし、神社本体よりも周りの曲輪が残っている分で稼いでいるだけでしょうけど。



 手水舎に掛けられていた算額。今でもあるんですね、算額奉納。



 神社は七五三の子どもたちで盛況でした。



 井戸。



 武田神社のおみくじ。お館様が…



 …マミったー!?

 …そんな事言ってるから末吉になるんだ…



 宝物殿の前にて。なぜか寄進されていたキティさん石像。石屋さんが手慰みでこういうマスコットを作ることはしばしばある(うちの近所にもザクがいる)のですが、しかしそれを寄進するというのは作ったはいいけど扱いに困ったのか。寄進されたほうも扱いに困っているような(笑)。



 東側の堀と赤備え。実は本来はこっちが大手。



 武田時代には丸馬出で、武田滅亡後の徳川・豊臣時代には石塁で防御されていたようですが、今は発掘調査の結果を踏まえ石塁が復元されています。





 土塁、惣堀も復元。



 どんな内容なんでしょうか。ちょっと気になります。



 西曲輪と本丸の間の水堀。



 西曲輪から見た本丸土塁。やっぱでかいです。



 本丸に残る天守台のあたりは残念ながら立入禁止なのですが、石垣の痕跡があるこのあたり、あるいは別の場所でこんな感じなの… かな?



 西曲輪北桝形。



 西曲輪外の空堀。



 この先は遺構じゃなくて畑、だよなあ。



 これも館の一部かな? と思うものの、曲輪にしてはちょっと規模が小さい、かも。高さは十分あるのですが。そしてゴミが散乱している(苦笑)。



 西曲輪は今も発掘調査仲。



 水堀にて。なんかUMA的なことになってるコブハクチョウ。



 では、風のように甲府城に移動しましょう。



 甲府駅のすぐ近く、甲府城に到着。正直甲斐=武田イメージがあまりにも強烈で、印象の薄い城でしたが、なかなかどうして見事な石垣。関東地方周辺では珍しい織豊系城郭として実際の存在感は十分以上。



 大幅に城域が減りながらも中心部の石垣は見事に残っている甲府城ですが、堀はほとんど埋め立てられて残っているのはこの南側の部分だけ。



 …で。城の行き方とかそんなのばっかり下調べしてそっち方面は完全に手薄で甲府に来てから判明したのですが、B-1グランプリの当日だったんですね。そして甲府城は会場の一つ。うげ、超混んでる…



 賑わってるのは大変結構だけど、 …やりにくいなあ… かといって開き直って自分も食べまくろうにもどこのメニューも20分から凄いところでは80分待ち。さすがにちょっとそれだけの待ち時間は(苦笑)。



 この城をくれてやるとか言われたら、そりゃ近藤勇も勝海舟の口車に乗ってしまうというものです。



 本丸鉄門は現在復元中。漆喰の上からビニールがかかっている門というのも面白い。



 これも復元された内松陰門。今日はB-1の関連で閉鎖中…



 最高所にある天守台。





 …さっきからたまに画面に写って気になっていた方もおられるかもしれませんが、本丸にはアホみたいに巨大なオベリスク風石柱がぶっ立っています。明治天皇が皇室財産の山林を山梨県に下賜したことを記念して立てられた謝恩碑らしいのですが、しかしなにもこんなばかでっかくせんでも… 高さ18.2mということは本丸にガンダムが立ってるのとほぼ同じだぞ…

 ちなみに甲府城の本丸だか天守台だかは戦時中には陸軍が探照灯を設置していたらしく、発掘してもコンクリートの基礎がざくざく出てきて厄介だったらしいです。随分好き勝手に本丸を弄られてるんだな、甲府城。





 天守台。



 天守台に天守が建っていたかどうかについては肯定否定両説あり、つい最近も4層構造だったとの説が発表されたとかで(たしかニュース部に載せた気がする)議論が盛り上がっているところ。手がかりとなる絵図や古文書には懸賞金もかかっているようです。個人的には江戸時代はともかく加藤・浅野時代にならあってもまったくおかしくはないとは思います。 …同時にこれだけ遮るものがない最高所に建ってたとなると、仮に江戸時代も存続していたとしてもどこかの段階で落雷食らって炎上して結局残ってないよなあという気もちょっと(笑)。



 天守台から見た謝恩碑。



 復元された稲荷櫓。



 こういう微妙な段差に弱いんですよね。



 城から離脱、歩行者天国となって賑わう跨線橋の上から。



 跨線橋上にはご当地ヒーローもいました。



 線路を渡った先には山手御門も復元されていますが、やっぱりB-1会場になっていて人が多いので遠くから見るにとどめます。



 さっきからB-1会場で漂ういい匂いに刺激されるだけされていたのでこのあたりで昼飯。山梨名物といえばほうとう… ですが店が混んでたのでもうひとつの名物、鳥もつ煮。うむ、これもうまうま。 昼飯も食べたので甲府から移動。目指すは勝頼が躑躅ヶ崎に代わる新たな拠点を築こうとして果たせなかった新府城。



 甲府駅から中央本線で16分ほど、最寄りの新府駅は無人駅。折しも甲府がB-1で賑わっていたこともあってなんともいえない落差があります。駅から城までは10分程度、道標もあるので多分迷わない、はず。



 途中遠目に白い花みたいな実みたいなものがいっぱい生ってる樹があるなーと思って見ていましたが、果樹栽培に使う紙袋(多分桃?)なんですね。ずらっと並んでいるとなかなかの景観。



 本丸跡にある藤武神社の参道。これを登れば本丸まで一直線ですが、石段で一直線だけになかなかの気合が必要です(笑)。



 藤武神社。 …石段を登るのは山道とはまた別の疲れが来ます(笑)。



 神社の裏に広がる本丸。織田迎撃専用城郭・第三新躑躅ヶ崎となるべく築かれているだけあって広大(違うだろそれ)。その広大さが余計に切ない、というのは結末を知っているからこその後付けでしょうか。



 本丸にあった推定復元図。







 武田勝頼公霊社と長篠で討ち死にした武将たちの慰霊碑。霊社の創建は1687年。滅亡から100年以上経ってから家を滅ぼした当主の祠を住民が建てるというのはなかなかないことのような気がします。あらためて、甲斐は武田の国なんだなあと。まあ、徳川家には相当数の武田遺臣が士官していますし、権現様自身がかなりの武田推しだたこともあって武田家への追慕に対しては寛大だった、という条件の面もあるのかもしれませんが。



 二の丸と本丸の間には土塁によって仕切られた空間が。ここらへんはいかにもなテクニカルさ。



 本丸の土塁。



 二の丸… だと思うのですが、いかんせんススキが激しすぎて…



 二の丸馬出下から虎口の方向。車が通る道がつけられているためかなり改変が加えられているかも。





 土塁によって隔てられた西三の丸と東三の丸。



 現地では「これじゃないよなあ」と思いながら一応撮っていたのですが、実はこれが大手の枡形っぽい?



 ということはこの半円形で端に土塁のある曲輪が丸馬出ということになるのか。 …いや曲輪の形状から気づけって話ですが(苦笑)。ということは見逃してしまったけどこの土塁の下が三日月堀だったか… あちゃあ…
 一つ言い訳すると大手門の案内板がちょっと微妙なところに立ってたんですよね。矢印の指すところが道のようにも見えなくなくなくもない程度の藪で。そのあたりを重点的に探していたので完全にスルーしてしまったのでした。



 道路を隔てた反対側の低地。今は畑なのかなんなのかよくわからない状態ですが、かつての堀跡でしょうか。

 新府城はこれで終了。一部にはかなり技工を凝らしたギミックが仕込まれていてさすが武田流築城の集大成と思えるところもありますが、全体としてみるとやっぱり未完成というか、必要最低限の機能をとにかく揃えることを重視した、といったようなイメージを抱きました。
 もっとも、新府城単体ではなく北方の能見城やその周辺に築いた防塁なども含めたラインでの防衛が構想されていたという話もあり、そうであるなら実に大規模な構想であります。ただ、この能見城も天正壬午の乱の際に徳川勢が築いた可能性が… とか話が続きだすとキリがないので止めておきましょう(笑)。ただ、天正壬午の乱で徳川勢が入ったことがこの城への興味の一端を担っているのは確かです。武田滅亡の悲劇の中での存在感もさりながら、その後、信玄をリスペクトしていたともされる家康が未完成の武田の遺産に布陣したときになにを思ったのかとか、そんな感じのことを。



 これで今回の作戦行動は終了。甲府から新横浜までハマカイジとかいう負け癖に負け癖が重なってるような不吉な名前の特急に乗って移動(失礼な話である。というか本当はひらがな表記である)、そこからはのぞみで撤収。信濃甲斐を攻略して帰りは富士の麓をかすめて帰るとか2、3ヶ月したら本能寺の変でも起きそうな行動パターンですが、まあ、裏切ってくれる仲間自体がいないから大丈夫でしょう、きっと。



 おまけ。甲府は小諸と上田に比べて小ネタが少ない街でした(というかあの2箇所がおかしい)が、一点。駅前にいた武田家所属っぽいバス案内武将。なんか妙に頼りなさそーな顔をしていますが誰がモチーフでしょうか。まさか信玄ということはないよなあ、こんな頼りなさそーなあんちゃん。

今回の旅行による累積経県値:167点
百名城訪城:55/100

 沖縄を除いてあと駅・PAやSAから出ていないのは… …グンマー一県か… …さすが、グンマー…‥

ばっくとぅとっぷ

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