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ばっくとぅとっぷ


台湾旅行記 4日目 台南 4月9日(月)


 朝。従兄が近所の公園になんか戦車が置いてある、と教えてくれたので散歩がてら見に行くことに。



 台南市とはいっても合併で編入された田んぼの多い郊外地帯、そんな場所にある何の変哲もない運動公園。そんなところに確かに唐突に置いてありました。解説板は車両の前に埋め込まれていたので、一応展示品ではあるっぽい。



 M48A3 パットン戦車。今も近代化改修を施したCM12型は現役、らしいです。導入は1973年。



 M42 ダスター自走高射機関砲。1958年獲得。元になったM41ウォーカー・ブルドッグ軽戦車は漢字表記だと華克猛犬。音の当て字と意味の当て字を合わせ技で使われるとなかなかややこしい。



 M42のスペアの砲身。



 従兄曰く近所の子供(含従兄自身の娘)がしょっちゅうよじ登って遊んでいるようで、展示品とはいえ半ば遊具のような扱いなのでしょう。 …一瞬私もある衝動に駆られかけましたが、周りにジョギングしてるおっちゃんとか太極拳してるおばちゃんがいるのに気づいて自制。って別に人目がなかったら登ってタンクデサントごっこしてたとかそんなわけないじゃないですか嫌だなああはははははは。 あはははははは…



 ハッチに輝くマークは青天白日(語呂悪い)。



 履帯のゴムは国産品のようです。79年とありますが多分民国歴なので1990年のこと。

 朝飯前からいいものが見れてしまいました。ということで一度朝食を食べに戻り、ここからは従兄の奥さん(当然地元民である)の案内&運転で台南市街へ。台南は高雄や台北と違ってまだ地下鉄が整備されていないのでこれは助かりました。





 まず連れてきてもらったのは海に近い安平地区の億載金城。二鯤?(魚編に身)砲台とも。日本の台湾出兵を受けて建造されたというのは高雄の旗後砲台と同じ(ただしあちらは既存施設の強化)。



 スワンボートの中に1隻だけドラゴンボートが… こういうのもドラゴンボートといっていいのかなあ?



 日本統治時代は荒廃放置されていたようですが、改修によって綺麗に整備された観光地になっています。



 これは整備される前の状態のままの弾薬庫跡。



 構造としては長方形の四隅が稜堡として突出し、周囲に堀を巡らせた形。1876年完成ということでちょうど五稜郭の10年後、同じ西洋式築城ということでどことなく似た雰囲気の印象を受けます。というか、平面形状も五稜郭じゃなくて四稜郭の方と同じような感じですね。ということでこれはその稜堡部分。



 かつての砲座跡ですが、今はでっかい木が邪魔して射界零。





 あちこちに置いてある大砲はレプリカ。



 ただし、この1門だけは本物のアームストロング砲。なんかここの大砲はイベントの時などにたまに実際に撃ってる(もちろん弾は込めず)らしい、と従兄の奥さんが言っていましたが、この砲を空砲で撃っているのかあるいはレプリカの方で花火かなんかを撃ってるのかは不明。



 前の案内板がある方が本物。実際見てみると明らかに質感が違う… のですがこの写真では遠すぎてさすがに比較できませんね。



 ん? なんだあれ、軍艦のマスト? …よし、すぐ近そうだから次にちょっと見にいってみましょうか。





 富陽級駆逐艦「徳陽」(元米国ギアリング級駆逐艦 DD-837 サースフィールド)。こんなところで記念艦になってたのですか。下調べの段階でまったく気づいてなかったので、これは嬉しい発見。

 …が、残念ながら月曜は休艦日。まあ、一人で放浪しているならまだしも従兄夫妻と一緒に来ているわけで、うっかり開いていていつもの暴走状態に入って艦内に突っ込んだまま2時間くらい出てこない、とならなくてよかったのかもしれません。従兄はなんか一緒にはしゃぎそうな気もしますが、従兄の奥さんは絶対ほったらかしに(笑)。





 1945年7月31日竣工、1977年10月1日台湾就役という超老兵ながら、2005年4月1日まで在籍。ギアリング級は本来5インチ連装砲3基などが主兵装でしたが、この艦は「武進3号」改装でスタンダード対空ミサイルや対艦ミサイル「雄風」、アスロックなどを装備。かわりに砲は76oが1門に減っているはずですが… …どう見ても砲、前後に2門あるよなあ… 単に参考にしたサイト(もしくはその見方)のミスや例外なのか、あるいはミサイルなど一部装備は退役時に他艦に譲られたらしいのでその時に賑やかし的に積みなおしたのか。

 ともあれ、次来る時(予定はない)こそは月曜以外に来ようと思いつつ次の目的地へ。



 その前にちょっと一息でジュースなど。台湾名物フルーツ牛乳。左の萃香もといスイカ牛乳が私の頼んだもの(右はマンゴー牛乳)。スイカと牛乳、という取り合わせに最初は? となったのですが、これが意外にいけました。スイカの水っぽさが牛乳に消されて程よくなるといいますか。





 次の目的地は安平古堡(あんぴんくぱぁくーぱー)。オランダ人が1624年に築城して鄭成功が攻め落とし、そのご鄭氏政権3代の居城となった城。歴史ネタ的にはゼーランジャ城(熱蘭遮城)といったほうが通りが良いかもしれません。



 というわけで鄭成功像が立ってたり。



 ただし、この煉瓦積みの平台は日本統治時代に廃墟化されていたところを積み直されたもの。



 道理で防御施設にしてはあっさりよじ登れそうな構造なわけです。ご丁寧に足場になりそうな凹みまであるし。



 こういう風に撮るとなんかマヤのピラミッドみたいにも。



 本当の意味で古蹟と呼べるのはこの城壁跡と半円堡の残骸(見てない)など。ここの煉瓦はさっき見た億載金城を築く際の資材としても持ち去られたとか。

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 銘文入りの大砲。文面は… 誰か任せた。



 資料館の建物は元税関宿舎。



 往時の復元模型。今となってはいかにもアジア、な台湾の地にこんな西洋西洋した城があったというのもなかなか想像できない光景ではあります。文禄・慶長の役の時にあの半島に築かれた日本式城郭とか、他所の国の土地に作られた本国式の建築物というのはその異物感がロマンをかきたてるような気がします。実際のところはよほど極端に気象や土地の条件が違いでもしない限り(砂漠とかジャングルのど真ん中とか)、頭の中で考えているほどには違和感のない光景なのかもしれませんが。



 安平付近は古い町並みが残っているということで、しばし散策。



 土産物屋で木刀売ってるという文化は当地でも。武器の形状が中華風のものになっているというのもこのお約束の定着具合が垣間見え、興味深いです(そうか?)



 …古い町並み散策といいながら、あっさり昼飯の写真まで飛んでますね。揚げエビ春巻きとエビ団子スープ。どちらもすごく弾力に富んだ歯ごたえでとても美味しい。地元の人の案内があると食べ物で迷わなくていいのが大変ありがたいです。いつも一人だと散々迷った挙句限界が来て適当なところで適当なもの食っちゃうからなあ。



 ○○(果物の名前)+茶というのは要するにアップルティーとかピーチティーとかそういう系列の飲み物ですが、最初見て「葡萄と柚子? よくわからん取り合わせだなあ…」と思ったのがこれ。正解はグレープフルーツ。 …後ろにそのものの写真が描いてあるだろ? いやそうなんですけどどうしても「葡萄」という字面のインパクトが強すぎましてな。



 エリンギなどのきのこ類を揚げて売ってる屋台。ですが左下のきのこはなんかどうみても毒入り危険食べたら死ぬでと全力で主張しているように思えてなりません。



 次にやってきたのは市街中心からやや北側のこの廟。



 一見何の変哲もない廟に見えますが、実はこの廟に祀られている人は日本海軍のパイロット。



 鎮安堂・飛虎将軍廟。1944年10月12日の台南上空における防空戦にて戦死した杉浦茂峰兵曹長(戦没後少尉)が祀られています。当空戦にて被弾、墜落しかけるもそれによりこのあたりの集落へ被害が出ることを避けるため一度は急降下に入った機を立てなおして別の場所に飛び去り、脱出時に敵の機銃掃射を受けて無念の戦死。この身を捨てて集落を守った行動への感謝の念として建てられたのがこの廟。最初は4坪程度の祠でしたが、1993年に何千万もの寄付が集まってこのような立派な廟に改築されたとのこと。今も廟守さんは朝夕二回煙草を神像に捧げ、朝は「君が代」、夜は「海ゆかば」を流されるとか。

 私達が訪れた時も廟守さんが中におられ、お茶を出しながら色々と話して下さいました(全部従兄に通訳してもらった)。主な目的地は台北なのにこの廟にお参りするためだけに台南に来る日本人もおられるとか、普通神様になるには数百年もかかるのにここの神様はわずか数十年で神様になられた、とか。訥々とお話される雰囲気に厳粛な気分になり、廟の中の写真を撮っていいか聞きそびれました。廟の壁の棚には零戦の模型が飾られ、というか片付けられていたりしたのですが(あるページを見ると乗機は32型だった、とあったのですが模型の主翼は丸かった。ただのミスか、あるいは実は22型だったりしたのか)。

 正直、この廟について書いてるサイトをぐぐると真実とか愛国とか○○鎌倉!ブログとかの単語が踊ってたりして気後れするところはあります。ありますが実際に異国の地に戦死した日本軍人をお祀りする廟があり、今も廟守の方がおられて訪問者が絶えない、という事実に畏敬や感謝や友好の念を覚える事にはなんの問題もないでしょう。

 …同時に「戦死→お祀り」の間に「終戦後集落で亡霊出没騒ぎが起きて村人恐怖→占ってみたらこの付近での戦死者の霊ではないかとでた→ああ、あのパイロット!→祠を建てて感謝の念を捧げ顕彰しよう」という、「ガチ」な人のサイトを見たところ結構スルーされている事情があった(これは現地でもらったパンフレットにも書いてあった:どうもあちこちで引用されているある記述がパンフレットを要約した時に意図的にかうっかりか抜かしたっぽい)、ということにおかしみを感じてしまうあたりが、私の愛国心とか真心とか誠とかの欠如しているところなんですけどね。現地で実際お参りして胸を打たれることとも別に両立するとは思うのですが、まあ、理解されないことだとは思います。



 ややこしい話は終わりにして次に行きましょう。今度は台南の街の中心部。ゼーランジャ城と並んでオランダ人が築いたプロビンシア城(普羅民遮城)の跡。ゼーランジャ城の前に鄭成功によって落とされた城、ということでやっぱり鄭成功像が。どうもオランダ人の降伏を受け入れてるっぽい。今は赤嵌楼と呼ばれています(真ん中のかんの字はもう一個やまかんむりに土に欠と書く場合もある)。



 並ぶ亀さん。ここの石碑は読めませんでしたが裏手に並んでいるものの中には乾隆年間と読めるものもあったり。





 楼閣は19世紀に建てられたもの。その基台はオランダ時代のものであるようです。



 あとこの古城壁も。漆喰にもち米とか砂糖を使ってるとか。なんとも贅沢にな話に聞こえますが、日本でも米を使っていたところ代わりに海藻を使う方法を発見したからこそ日本では城郭や土蔵に大量に漆喰を塗ることができた、という話を聞いたこともあったように思います。



 ゼーランジャ城と繋がる抜け穴伝説がある井戸。実際のところは河口付近のデルタ地帯の軟弱地盤を相当な距離掘る必要があるわけで、伝説は伝説といったところでしょう。



 ここでちょっと早い夕食というかおやつというか。台南名物担仔麺(汁なし)に魯肉飯にホルモンなどを自分で選んで炒めてもらうやつ(名前忘れた)。あと台湾ビール。臓物系は最初警戒していましたが意外と平気にいけます。ビールあるんでなおさら。微妙にハードル高い材料も混ぜといた、という従兄は私がぱくぱく食ってるさまを見て「よし、じゃあ次は臭豆腐いってみっか」とか言い出しましたが、さすがにそれは心の準備ができてなかったので又の機会に(笑)。



 従兄弟の奥さんが子供を幼稚園に迎えに行くまでの残り時間でもう少しだけ、中心部の日本統治時代の建物を中心に見て回ります。これは旧台南合同庁舎。昔は消防署と警察署が入居しており、今も消防署が使用。壁面に大書された119と警察の110は日本統治時代から引き続きこちらでも緊急通報番号のようです。



 1930年代に建てられた見張り塔のひさしには燕の巣がこんもりとしか表現しようがないくらいに。





 旧台南州庁舎。今は国立台湾文学館。



 旧台南警察署本部。現在も台南市警察局が入居。見えづらいですが建物左側奥に日本風の屋根がついてるのが見えます。 …しかし、歴史的建物を大事にしてくれるのはありがたいところですが、現役の庁舎として使わされる警察や消防の人達からすれば使い勝手とかどうなのかな、と思わないでもありません(笑)。



 …それなりの数の日本人がつい頭を抱えてしまうような名前の道路。この旅行期間中にも全世界的に見て壮絶にいらんことをしにイランにいって無事帰ってきやがったということは覚えておきましょうか、あの鳥類め。





 歴代皇帝・総統が奉納(というのか)した扁額が掲げられた台湾最古の孔子廟。写真を載せた総統のチョイスに特に意味はありません。境内で太極拳なのか謎の体操をしているおじいちゃんおばあちゃんを載せた意味は輪をかけてありません。

 本当はこのあたり(台南の地図を見てもらえばわかりますが、ロータリーになってるところ)には他にも日本時代の建物が点在しており、また国立成功大学には台湾歩兵第二連隊司令部が残されていたりしますが、時間切れのために今回は訪れず。最後に鄭成功を祀る延平郡王祠をみて戻ります。



 日本時代は開山神社として日本風に改築されていた廟(正確には拝殿は作られたが中国風の祠はそのままだった模様。ただし戦後取り壊され建て替えられたので今あるものではない)。台湾人を祀る数少ないというかほぼ唯一の神社でした。



 神社時代の神輿や木魚、三方が残っています。 …いや、木魚は寺のものだよな… ちょっと保留しといたほうがいいかな?



 鄭成功の成功お守り。シャレか、シャレなのか。恋愛も学業も事業もまとめてセット販売もしてるのが台湾的合理主義。



 前に建ってる門は元は鳥居。隣の公園にある灯籠(の上の部分)も日本式っぽいな、と見えたのですが詳しいところは不明。



 これにて一度従兄弟の家に戻り、もう一日泊まってけと勧めてくれる従兄の家族に感謝の意を表しつつ台北へ。新幹線の車内では従兄の奥さんが持たせてくれたパイナップルなどぱくつきながらのんびり1時間半。ここまでは大変快適な一日でした。 …ここまでは。

 実はこの日大変だったのは台北についてから。台北駅から地下鉄で一駅の西門駅のホテルを予約していたのですが、ホテルの予約サイトから出力した地図が全然見当違いの場所をマークしていて(別に私が地図を動かしたとかではなくMAPボタンを押して出てきた時点で狂っているということをあとでもしっかり確認)、台北に到着したあたりから降りだした大雨の中あるはずのないホテルを夜の9時から1時間以上も探しまくるハメに。南国の土砂降りに晒され続けてついに心が折れてタクシー捕まえて運ちゃんに必死でホテルの名前を見せるも知らず、更に運ちゃんには簡単な英語も通じない。ホテルに電話かけて運ちゃんに出てもらえばいいか、と気がついたもののこういう時に限って番号をメモしておらず、これ以上運ちゃん拘束するのも無意味だし一度出るかと思ったその時、 …ヤケクソで日本語で話しかけたらカタコトが通じました(笑)。それで運ちゃんに番号案か何かに電話かけてもらって無事ホテルに到着。地図の指していた大通り沿いとはまったく違う、繁華街の中のビルの上層階のみという小さなホテルでした。 …これはグーグルマップが拾わなくても仕方ないといえば無いけど… しかし、疲れた……

 今度からはホテル等の住所はクロス・チェックを徹底しよう、そう教訓を得た私は主にラストの一時間半で疲れきった体を引きずり、シャワーだけ浴びて早々にベッドに倒れ込んだのでした。 …ま、まあ、今回の旅行は現地協力者のお陰で至れり尽せりだからこれくらいの障害もないとね!(極めてわかりやすい結果論による空元気)

台湾旅行記五日目 台北 故宮博物院へ

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