過去日記目次へ


ばっくとぅとっぷ


今日の備中日記 1月12日(土)


 毎度おなじみ3連休の初日2日目での中規模作戦。今回は岡山北部、備中・美作地方を中心に行動します。なお、現存天守を擁する備中高梁城は以前訪れているので今回はパス。最初の目的地は鬼ノ城。最寄り駅は吉備線服部駅ですが、最寄りといっても駅から5km以上離れた山中で。しかも服部駅は無人駅でコインロッカーとかなさそうな感じだったので、潔く総社駅からタクシーで移動。



 総社駅そのものよりも、その隣の駅(もちろん東総社ではないほう)の名前に反応される方は概ねお友達かと思います。年齢的にも。何を隠そう天地無用!が「こっち系」のアニメの道に足を踏み入れるきっかけの一つでしたから、私は。初期の頃は阿重霞一択だったけど、なんか気がついたら徐々に清音のほうが強くなってたんだよなあ、自分内で。というわけで今日の脳内BGMはあの作品の曲がメドレーで。 …ただ、足を伸ばせばいわゆる聖地の鬼の岩屋があったのですが、残念ながらそっちのほうには向かえず。少々遺憾です。



 総社駅にあった幼年雪舟の像。このあたりが生誕地なんですね。鼠がいるのは有名なあのエピソードのつながりだと思いますが、しかしこの幼児、なんか顔がへうげものの利休っぽい感じで年に合わない老成っぷりなような…



 ともあれ総社駅からタクシーで20分くらい、だいたい2,700円で鬼城山ビジターセンターに到着。今から訪れる鬼ノ城は普段巡っている中世〜近世城郭とは毛色が違います。うぃきぺとかを見ていると定義はややこしくてあまり深く考えたくないっぽいですが、古代山城とか神籠石式山城とか朝鮮式山城とか呼ばれるアレです。鬼ノ城は文献に記述がないため築城時期や築城者など謎だらけの城ですが、とにもかくにも山頂が平坦な山の中腹をぐるりと石塁・土塁で囲むという、古代の一定の形式を備えた城であることは確かです。備中の城というよりは、あえて吉備の城としたいところ。



 ビジターセンターでパンフレットを入手、荷物を無料のロッカーに放り込んだあと、5分ほど歩くと城が見えてきます。



 角楼。城壁から長方形に張り出した防御施設。朝鮮の城でいうところの雉城か、とも言われています。石垣上に櫓のような建物が建っていたかは不明。



 土塁も版築土塁なので、戦国期の城とはスタイルも印象も全然違います。



 復元された西門。東西南北4つある門でも最大級。建築基準法上の工作物扱いで建ててしまったため、中には入れません。



 本当なら盾は手すりの内側に置くものですが、それだと模様がよく見えないので外側にかけているとのこと。





 城壁は土塁と高石垣で構成されています。



 いい天気だったこともあいまって、とても日本の山の中とは思えない風景。中国西域のどっかの都城跡、といっても違和感ないよなあ。



 この城の特徴の一つ、水門遺構。山一つぐるっと囲むということは当然小川がある上に、鬼ノ城の場合城内に湿地帯を抱えているで、こういった排水設備が必要なのでした。これは第0水門。

 

 こっちは第2水門。現在第0から第5まで発見されているようです。



 城内各地に点在していた構造物。特に解説等はなし(のはず)。後世の祠でしょうか。



 こういった石仏があるところからすると、やっぱり後に山岳寺院とか山岳道場とかになっていたのかもしれません。



 遊歩道の内側だけでなく下にも石垣がありますが、下から見上げられる位置まで降りる通路はなかったので写真はなかなか撮れず。それだけの急坂というか崖というかの直上に築かれているということです。よくこんなところにこんな構造物を建てられたなあ。1,300年とか1,400年も前に…。





 南門。こちらは建物を建てず柱だけ。



 他の城なら復元整備の時に勢い余って整備しちゃった蛇足の構造物かと思うところですが、この敷石も実は遺構。本場韓国でもあまり例のない遺構のようです。



 第4水門と第5水門につながる沢。



 東門は現在発掘調査か整備工事の最中。



 城内にはこのような巨石がごろごろ。往時はこれらの石も石垣を構成していたのでしょうか。それにしてはでかすぎるものも多いですが。



 西門近辺と並ぶ、あるいは西門を超える(あっちは復元ですし)鬼ノ城のみどころ、屏風折れの石垣。血吸川(すげえ名前だ…)に向けて突出した舌状の突端部を石垣で固めています。



 解説板によると、地形もあって建物は建てられていなかったのではないかとのこと。下は断崖ですしこの石垣だけで十分堅固でしょうしね。



 石垣の下の方にも大岩が。人工の石垣だけではなくこういった大岩が点在していることも、「鬼の城」というイメージの醸成に一役買っている感じがします。



 鬼といえば、この城は桃太郎の元にもなった温羅伝説の舞台で… というか、だからこそ鬼なんていう名前がついているわけですね(前述のとおり文献に記述とかがないので築城当時の名前は不明)。ただ、今はシーズンオフだったのか鬼系モンスターとはあまり遭遇しませんでした。第3水門のところでエンカウントした青鬼が最大の大物だったくらい(してへんて)。



 屏風折れの石垣から北門までの間の崩れた石垣。



 北門。城中で唯一背面部(吉備高原に向いた南側を正面とすれば)に設けられた門。東西南北の門のうちどれが正門かはわからない(ただ、西と南は東と北に比べて規模が大きい)のですが、なんとなくこの門は後代でいう搦手のイメージがあります。



 通路中央には排水設備が。





 パンフレットには特記されていませんでしたが、この北門から出たところに広がる半分崩れた石垣の風景をけっこう気にいりました。整然と積み上げられた石垣の見事さはいうまでもありませんが、こういう半分崩れて半分散乱している石垣というか岩場というかの荒涼とした雰囲気、いかにも「鬼」に似合うのではないかと思ったりして。



 城内の礎石建物跡。これでほぼ一周、離脱します。あ、一周は約2.8km。所要時間は写真をとって色々じっくり見ながら回って、大体2時間といったところでしょうか。正直、古代山城なんて百名城イロモノ枠の一つだろーまあせっかくだからついでに寄るか程度の気持ちできたのですが、そういった認識は完全に撤回しないといけません。ヘタな近世城郭より迫力があるし、面白い。ただ、欠点は交通アクセスですねえ。タクシーで2,700円、麓から歩くなりチャリなりで山道を5キロ以上というのは、かなり… まあ車使えってことでしょうけど。



 ビジターセンターからクソ重い荷物(1泊分の荷物+アホみたいにでかくて思いノートが入った台湾軍御用達ショルダーバッグ)を回収してさあ帰ろうかと思ったら、こんな標識を見つけてしまいました。地図を見ると鬼ノ城からせいぜい3、40分。方向的には帰り道。 …見つけた以上は行くしかないでしょうね。電車の時間も余裕がありますし。



 というわけで、鬼ノ城からみて西南の山にある経山城。築城者は大内義隆、その後毛利の東方最前線拠点とし、高松城の戦いの後は宇喜多領となった城。構造としては北以外の三方向を急斜面に囲まれた山の山頂部分に主郭をL字型に配し、その中を土塁で数個に区画。主郭の下に二段ほどの帯郭を配した形でしょうか。城の規模としては小さめ。



 例によってわかりづらい写真ですが、城の入り口がある北郭(主郭と土塁によって隔てられた郭。ただし区画はかなり曖昧な状態になっている)には、土塁の内側に空堀が掘ってあるという少し珍しい構造が。武者隠しでしょうか。



 城内には土留めと思われる石垣の痕跡が複数ありますが、その中でもっともはっきりと残っているのがこの北郭の石垣。



 この石垣が主郭と北郭の区画線ですね。たぶん。



 二段に配された帯郭の下の方。便宜上三郭とします。



 三郭と二郭の間の石垣。



 本当はあの鉄塔のあたりも郭だったりする可能性はあります。



 三郭下、空堀。鉄塔に邪魔されていますがなかなか大規模。



 主郭。削平は少し甘いような。



 北郭から鬼ノ城がはっきり見えます。

 これで経山城も終了。重い荷物をかかえて駅まで5kmの道のりをひたすら歩く。ここが今日で一番疲れました。往路はタクシー投入して正解だったなあ…



 道の途中にある砂川公園の「ウォータースライダー」。自然の川を利用した親水公園の一遊具… らしいのですが、水量とか安全的に大丈夫なんでしょうか、まあ、そんなに傾斜もついてないみたいだからいいのか。



 荷物が重いこともあってよたよたしながらなんとか服部駅に到着。鬼ノ城はここからでも見えるんですね。当時は児島湾がけっこう奥まっていたみたいなので、そういう面もあっての立地なのかもしれません。

 服部駅からは2駅だけ移動、備中高松駅へ。駅名からもわかるとおり、本日最後の目的地は秀吉の超必殺技、水攻めが発動した備中高松城。駅からは歩いて10分。



 高松城をはじめ、備中高松駅の周囲には造山古墳や備中国分寺、日本三大稲荷の一つ最上稲荷など史跡が豊富に残っています。駅のこのオブジェはそれらをひとまとめに表現したもの、でしょうか。高松城が古墳の後円部だったら完璧だった(高松城の戦いの時に後円部が陣城に利用されていた)のですが、まあそんな事言っても、ですね。



 巨大な最上稲荷参道の大鳥居を右手に見ながら移動。



 史跡 舟橋。このあたりに高松城外堀の舟橋があったとか。今は用水路にかかるただの橋でありがたみもなにもありませんが。



 公園化された本丸と二の丸からみて、道路を挟んだ位置にあるお寺の奥が清水宗治切腹の地。城兵の助命を条件に小舟で寄せ手に見える位置まで漕ぎいでてそこで、というのは有名なシーンだと思います。



 ごうやぶ遺跡、と案内板が立っていたのでなんの跡かと思ったら、宗治に殉死して家臣が刺し違えた場所、とのこと。いわくといい木の感じといい、うっかり撮っちゃいましたがひょっとして後々えらいことにならんかなあとか今更ちょっと怖かったりします。



 遺構という意味ではほとんどなにもなし。本丸と二の丸付近の敷地が残っている程度(このあたりは二の丸)。まあ、沼と水田と宅地に飲み込まれず城地が残っているだけでも、みたいな立地ではありますね。その立地こそがこの城最大の武器で、そして命取りになってしまったわけですが。
 どうでもいいですが、子供の頃の一時期備中高松城と備中高梁城を混同していたことがありました。どっちも備中高○城ですし、高梁のほうの別名も備中松山城で、今度は高松松山でこんがらがりやすい(四国の県庁所在地的に)ですし。 …しかし、備中松山を水攻めとかどうすればできるんだろう。ユダヤのほうの荒ぶる神さんを連れてくるくらいしか方法が(攻城戦ってか人類滅亡)。



 山口県周南市の大津島で見た平和観音音頭(2012年6月日記参照)に比べたらさすがに衝撃力は落ちるとはいえ、どうして日本人は過去の悲劇を音頭にしたがるのか…



 二の丸から本丸を望む。一応微高地なんですね。当時はもう少し高低差があった、かも。



 堀というか沼というか蓮池は実は後世の復元。で、復元してみたところ眠っていた400年前の蓮が発芽したのだとか。大賀蓮なんかは2000年以上前のものが発芽していたりしますし、蓮というのは凄い耐久力があるものですね。なお、この城の蓮は「宗治蓮」の名で親しまれているようです。



 本丸にある清水宗治首塚。蓮と同様、彼の首も掘り出してみたら…(ないて)

 さて、このあたりで高松城から離脱。攻囲側、秀吉勢の築いた堰堤跡の一つを見に行きましょう。



 高松城から東に10分ほど歩いたところにある蛙が鼻築堤跡。堰堤は鉄道建設などの際にほとんど撤去されて、今残っているのはここと足守駅近辺のみ。周囲は公園として整備されています。往時の大きさは基底部が24m、上の幅が12m、高さが7〜8mくらいと伝わります。基底部については発掘調査の結果、上記の数字が大体裏付けられたとか。





 発掘当時の地表面の断面展示。やっぱり当時と今ではけっこう高さが違います。しかし、杭列や俵の痕跡を復元するのはいいとして、混入してた骨までわざわざ展示せんでも…



 堰堤の上から見た高松城の方角(だいたい)。

 日も傾いてきたので本日の作戦行動は終了。一旦岡山に戻り、電車を乗り換えて美作国、津山に向かいます。電車の接続待ちで時間があったのでお土産を物色。



 岡山限定日本酒、3本セット。左右の2本は別にいいとして、真ん中の1本は自分で飲んではいけません。気に食わない上司や鬱陶しいライバル、目障りな恋敵などに飲ませるための酒です。 …ほんとうに、自分で飲んだらえらいことになりますよ?



 快速ことぶきで津山に移動。ふと駅前の掲示板を見たらこんなものが。そういえばこの漫画、岡山地本でしたね。



 ホテルに荷物を置き、ご当地B級グルメのホルモンうどんを食べて本日の日程終了。ふう、今日はけっこう歩いたなあ。

今日の美作日記 1月13日(日)




 一夜明け、津山の朝。ホテルを出ると朝霧が町を覆っていました。さすが山国であるなあ。 …なお、この写真を載せる意味があるのかどうかは考えないことにします。





 ともあれ、駅のコインロッカーに荷物を放り込んで早速行動開始。写真は駅から津山城までの店(空き店舗?)のシャッターに描いてあった「津山の城づくり」。なんというか、とてもいい味を出しています。特に忠政入府と津山城築城に描かれたおっさんの横顔あたり。これ忠政入府のほうは構図から考えて地元の人でしょうけど、津山城築城のほうは忠政本人でしょうか。というかにらみ合いの松の話とか描いちゃっていいのか。確かに避けては通れないかもしれないけれど(笑)。

 なお、森忠政による津山城築城にはこの他にも黒いというか血腥いエピソードがてん 盛りだったりします。 …まあ、もともとDQN四天王の一角鬼武蔵として知られる上の兄貴ともどもアレでナニな逸話に事欠かない人ですしねえ。信長小姓として有名な中の兄の人は聡明な美少年キャラで売っていますが、この兄弟からするとその本性は結構やばかったようにしか思えないんだよなあ。



 というわけで森忠政公。鬼の弟、あるいは森蘭丸の弟。美作津山藩初代藩主。

 …なぜピーチネクターを供えているかという理由はこちら参照。なんというか、色々と個性的な殿様です。主に黒い方向に。



 朝霧の中の二の丸石垣。なお、津山城(鶴山公園)に入るには入場料が必要です。



 この横矢といえるのかもわからない微妙な段差がついた石垣が好きなのは何回か書いてますね。



 二の丸表門の石段… を側撃する位置に設けられた曲輪。左に見切れているのがメインルート。このあたりからこの城のテクニカルさが発揮されてきます。門を突破して一息ついた直後、あるいは突破しようと門に殺到している真っ最中に横上から敵兵が降ってくるとか実にいやらしい。



 その現在忠魂碑(のたぐい)が建てられている曲輪から見た備中櫓。まだ朝霧の中に眠っている状態。



 そろそろ目覚めてきたみたいですね。



 津山城備中櫓は2005年の復元。森忠政の娘婿、池田備中守長幸(鳥取藩主)が津山に来た時に作られたことに由来する名前だとか。城内唯一の復元建築です。



 二の丸から本丸に通じる切手門跡。踊り場で階段の位置が平行にずれています。単純に右か左に90度折れ曲がるのではなくてこういう形式というのはなかなか面白いような。しかも登りきった先の通路は180度Uターンしていたりします。縄張りをした初代藩主の性格が反映された実にいんけ… もとい巧妙な配置。



 途中で段差が消滅して二面が一体化している感じの石垣。なんの意図があるんでしょう。単に経年劣化で変になってるだけ?



 こういう意味があるのかないのかわからない通路、妙に気になりますよね?

 

 太鼓櫓跡と鐘楼。



 普通本丸といえば城内最高所ですが、この城では本丸にさらに石垣を築いて櫓を建てています。ちなみに津山城には大小60の櫓があったとか。これは一言で言うと「アホほど多い」という水準。美作は中小国人が群雄割拠していた国ですし、なめられないようにガツンと威容を見せつける必要があったのがこれだけの城を築いた理由にあるのかもしれません。にしてもやりすぎだよなあ、これ…



 粟積櫓跡。俗に小天守と呼ばれていたとか。天守とかなり離れた位置にある小天守というのもなかなか面白い。



 その天守は石垣で区切られた天守曲輪の中に。



 天守曲輪入り口から天守台に至る通路もクランク状。



 天守台そのものの高さは控えめ。ただし面積はかなりでかい。天守自体の大きさは日本でも屈指のクラスでした。



 天守曲輪裏手の七番門。写真で見るとよくわかりませんが、復元された石段と石垣が新しすぎて、色味にどうにも違和感(笑)。



 ちなみにこの門の先は下に降りる石段なく、3メートルほどの段差になっています。普段は梯子なり階段なりをかけていて有事には外したのではないかとのこと。細部まで手が込んでるなあ。



 天守台、穴蔵。



 天守台にあったパネルより。昭和11年、産業振興大博覧会にあわせて再現された天守閣。本物の2/3サイズ、トタン葺き。外見は元あった天守そのままではないようです。市民に「張りぼて」の愛称で親しまれていましたが、大戦末期に空襲の目標にならないように解体… って「張りぼて」って愛称なのか。それで親しまれていいのか。



 これが明治の解体まで存在した天守の写真。4層目の庇がない独特の形状をしています。この形状になった由来についてはここ へん参照。





 …さて。先程からずっとポケットに入れていましたが、そろそろ飲みましょうか、これ。いやぁ、桃にあたって死んだ人が築いた城の天守台で飲むピーチネクターは美味しいなあ!
 …別にただこれがやりたかったからこの城に来た、わけではないです。ここまでに書いているとおり、そんな余計な付加価値をつけるまでもなくすごい城ですから、津山城。



 さっきの天守曲輪通路、五番門から入ったルートを上から。ここのところの芸の細かさが一番気に入ったかも。



 上から見た天守曲輪の石垣。



 上から見た備中櫓。中に入れるようなので行ってみましょう。



 備中曲輪内部は畳敷き。津山城はこの櫓をはじめとした各櫓を本丸御殿と一体化させていたのだとか。狭い本丸の面積を有効活用するためとのことですが、本丸の面積、普通に十分確保できている気がします。天守曲輪作ったりその反対側にでっかい石垣築いて櫓建ててるせいでその他の必要なスペースが取れなくなったのか…?



 なんでか櫓内部のうちトイレだけ撮ってたりするという。



 帰りは搦手から出てみましょう。これは裏中門方面。いかにもあとから増設しましたとわかる石垣の追加っぷりが面白い。



 ルート的には裏側ですが、こちらにも見逃すわけにはいかない見事な高石垣が。見所の凝縮具合でいうと表側よりも楽しめるかもしれません。



 眼下に堀も少しだけ。



 はい、それでは津山城から離脱。天守をはじめとした建物がしっかり残っていれば姫路城に匹敵する城として謳われていた可能性が高い、それくらいの名城でした。おかげで思ったよりもじっくり見て回ってしまい、予定していた電車の時間ぎりぎりになって最後はダッシュするはめに。



 城と駅の間を流れる吉井川の河原では、消防団が出初式をしていました。



 一旦岡山に戻り、新幹線で今回最後の目的地、福山へ。



 駅を出てすぐに福山城の高石垣がお出迎え。駅から近いというか、そもそも三の丸部分を貫いて鉄道が建設されているんですね。



 福山城は家康の従兄弟にして戦国の出奔王(出奔の際にはだいたいトラブルを起こす)、水野勝成の築城。若い頃はそれはもう無茶苦茶していた人ですが、歳をとってこの城に入ってきた頃には随分丸くなり、名君として讃えられたという人物です。そこら辺の変化はネタ目線で見るとどう捉えるか、評価がわかれるかもしれません(笑)。いや、丸くなったといっても島原の乱の時にはもう75歳なのに息子と孫を引き連れて堂々出陣。水野勢は最後尾にいたはずなのに気がつけば本丸一番乗りを争っていたりする大暴れをしてたりするのですが(ただし実質の指揮は息子)。



 阿部正弘像。阿部氏は水野氏の後、天領と松平氏一代を挟んで以降代々福山藩主でした。この人が長生きしていればあるいは幕末の様相も… などと「もしも」が語られる人物の一人。ただ、阿部氏は幕閣中枢にいることが多かったため、地元的にはあまり良い殿様でもなかったようです。



 建物の多くは明治維新と戦災で消滅し、遺構として残るのは本丸と二の丸の一部の石垣、櫓2基と門が1つ。これは復元された月見櫓。明治の初めに解体されたものを天守とともに復元。



 伏見櫓。こちらは現存建築。名前のとおり伏見城からの移築建物で、その意味でも貴重。解体調査の際に見つかった墨書から伏見城松の丸にあったことが判明しているとか。



 この筋鉄御門も伏見城からの移築(異説あり)。伏見城といっても関ヶ原で落城した後に家康が再建していますから、秀吉の建てたものではないのかと思います。実は家康から家光まで三代の将軍宣下の場所は伏見城。関が原後に再建されて最終的に廃城になるまでが23年、家康の在城期間も累計では江戸城より多いくらいなんですね。大阪城もそう… というか、最初に築城した人の名前で有名になっている城のかなりの部分がそうと言えますが、今に残っているのは後に入ってきた人が拡張したり再建したりした遺構だったりします。もっとも、そういった歴史の重層性というか、城自体に刻まれた歴史に思いを馳せることがまた楽しいのですけれど。



 湯殿。これも伏見城からですが、戦災で焼けてしまったため復元されています。



 湯殿は懸け造りになっていて石垣上に張り出しています。実は浴槽はこの張り出した部分の上。有事には風呂の栓を抜いたら簡易的な石落としになって、楠木正成よろしく下を通過する敵兵に熱湯を浴びせることができるようになっているのです。

 …などというデタラメをぼけーっと考えながら写真撮ってました。え? 当時の風呂は蒸し風呂だろ? …さあ、なんのことやら…



 鐘櫓。一応現存? というのは一時期は補修につぐ補修で原型を留めない有様になっていたところを、近年修復したものであるため。ソーラー電池利用の自動鐘つきシステムで、今も一日に4回、時を告げているそうです。自動鐘つきシステムっておい… と思いましたが、実は我らが真首都の六角堂なんかも導入しているシステムのようですね。寺の鐘と同じシステムなのかはわかりませんが、後継者に悩む寺では導入するところも増えているとか。別にハイテク導入で音に変化があるとか風情がなくなるとかそんな頑迷なことをいう気はありませんが、夜の10時に勝手に鳴りだす鐘というのは、想像すると少しホラーなところがあります。





 鏡櫓。これも明治期に解体されたもの。天守等の復元から7年後に、市制50周年事業として復元。





 天守。5層の層塔型で附櫓を従え、最上階に赤い高欄。5層天守ゆえの迫力と すっきりしたシルエット、適度な装飾のバランスがとれていていい感じ。



 北面から。こちらの面は城外との距離が短く、また小山があるなど防備にやや不安があるため、当初の天守では一面に装甲として鉄板が張られていたらしいです(どうせ異説はあるんだろうが知らん)。福山城の最大の不満点を上げるとすれば、せっかく天守を再建したのにこの最大の特徴をオミットしてしまったところでしょう。そんな天守他にはないんだから再建すればいいウリになったでしょうに。ほんと、なんで無視したかなあ。

 ちなみに、うぃきぺによると福山城の正式名称は鉄覆山朱雀院久松城、略して久松城だそうです。鉄覆山というのはもちろんこの天守の鉄板に由来するのですが、この名称… ほとんど戒名のノリだよなあ… まあ、この名前も例によって近代になってから名づけられたものの可能性が高いなんていう話もうぃきぺに書いてあるわけですが、いつの時代の人間にせよこの名前を最初に言い出した人間はちょっと出頭するべきだと思います。 …あ、本当に勝成さんが名付け親だったりしたら出頭されなくても結構です。あなたの傾き精神はもう十二分に理解していますから。命も惜しいし。



 天守から見た福山駅。本当に指呼の間。あるいは本丸と三の丸の間(まんまである)。



 城外に出て。東側の石垣は積み直しとかで結構弄られている、かも。



 トマソン的なことになっている入り口。あるいは津山城七番門のように普段にははしごをかけて、というか逆に非常時にはここから脱出するつもりなのでしょうか。



 昔からの石垣、目地をしっかり詰めた石垣、コンクリート、そして煉瓦と各種工法が一堂に会したポイント。別にわざわざここだけ煉瓦詰めんでもええやんと言いたいところですが、石垣の微妙なカーブにフィットさせるために最適の素材だったとか、そんな感じの理由でしょう。にしても煉瓦はなんか異彩を放っていてアレですけど。素直にコンクリを詰めたほうがまだ…



 手前の低い石垣の中は児童公園なのか遊具が置いてあるようですが、これは後世の付け足し?



 堀跡に設けられた親水施設。申し訳程度… とか言ったら怒られるでしょうか。



 新幹線上りホームから。月見櫓と伏見櫓はここがホームがベスト撮影スポットかもしれません。普通なら見上げる以外の構図が取りにくい櫓を真横から見られる、というのもポイント。



 ホームに張ってあったお願い。駅のホームで胴上げてお前、とか紙テープはともかくコメットって何、などと思いますが、同じように疑問に思った人は数多くいるようでネット上に質問と回答がたくさん落ちていました。なんでも昭和40年代くらいまでは新婚旅行の見送りとしてホームで胴上げしたり万歳三唱したりする習慣があったとか。で、コメットというのはその時に鳴らすクラッカーの現地呼称だそうで。時代ですねえ。

 時間的には少し早いですが、作戦行動はここまでにしてのぞみで帰還。古代山城に中世山城に田んぼの中の平城、石垣と縄張りで魅せる平山城に天守でもつ城。今回はなかなかバリエーションに富んだ城を見ることができた作戦でした。古代山城というのも近世の城とはまた違った面白さがあるとしれたのが本作戦最大の収穫です。復元整備されているのは鬼ノ城くらいのようですが、大野城をはじめとした九州北部の遺跡群、赤松氏の中世城郭と同じ山にある播磨の城山城あたりにも興味を惹かれるところ。文献史料が乏しいこともあり研究はまだ道半ばのようですが、今後のさらなる進展が待たれるところです。

 今回の旅行による日本百名城達成度 59/100

ばっくとぅとっぷ

アクセスカウンター
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送