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ばっくとぅとっぷ


今日の両毛日記 4月29日(月)


 コミ1の買出人体制から一転、城巡りモードに入ります。本日はMURAJIさんに車を出してもらい、グンマー・トチギスタン両勢力の国境紛争地域、いわゆる両毛地域へ。まず目指すは群馬県太田市にある太田金山城。関東には珍しい石垣造りの山城です。いつもどおり電車移動だと駅から徒歩で25分くらいかかりますが、今日は車なので城内の駐車場までひとっ飛び。車社会と他力本願万歳。



 太田金山城縄張り図。駐車場は西城の真下。実城まではぶらぶら歩きながら10分から15分くらい。





 城の最西端、見附出丸。



 ただの堀のようですが、なぜか表記が塹壕。というかこのあと出てくる堀跡の表示は全て塹壕。



 見附出丸と西城の間の虎口。いい食い違いっぷり。



 矢倉台西の堀切。やっぱり石柱の表記は「矢倉台西塹壕」。





 物見台下虎口の石垣。岩盤と一体化している感じが実にいい。この城自体が巨大な岩山なんですね。



 岩盤を穿つ堀切。ただの山肌を掘るだけでも大変なのによく掘ったなあ。と同時に、直近というかむしろその場に豊富に石材を切り出せたからこそ、これだけの城を築けたのか、とも。



 馬場曲輪の復元建物。曲輪の名前からして、当時は厩か何かが建っていたのでしょうか。 …特に関係なく普通の兵舎か倉庫だった可能性も十分にありますが。



 城の中心部に入る手前にある月ノ池。英語で言うとthe pond of moon。奥にある日ノ池と合わせて、金山城のシンボル的な施設。今は金魚とか泳いでいます。



 大手前の大堀切。例によって表示は塹壕。城内最大規模。



 大手前まで来つつ、回り道して南曲輪方面に。するとそこには帝国日本の航空業界に君臨する巨人、中島知久平の胸像が。ここ太田市はかつての中島飛行機、今のスバルの本拠地ですが、中島像はそんな太田の町を今日も城の上から見守っています。たぶん往時もこの場所に立ちながら富嶽の構想を練っていたに違いありません。





 南曲輪にあった城の立体模型。 …って等高線に沿って切り抜いた板を積み重ねて土地の高低を表現した姿は、紛れもなく地形模型! 某高校の某部の出身者としては圧倒的な懐かしさを感じざるをえない! …あ、でも某部の地形模型というよりは○物部のものに近いかなあ。色分けとかもしてないし。



 南曲輪から実城(本丸)方面へ。本丸には新田神社が鎮座しています。このあたりがかつての新田荘だったということで伝承上の金山城の築城者は新田義貞になっていたりする縁ですね。実際のところは新田氏族の岩松家純が15世紀に築いたっぽいです。その後家中が2つに分裂したり手打ちしたり由良成繁が下克上かまして城主に成り上がったり越後の大迷惑こと謙信の襲来を撃退したり北条傘下になったりと北関東に特有なぐだぐだをやってるうちに秀吉が襲来、降伏開城ののち廃城に。



 実は本丸、二の丸、三の丸には神社関係の倉庫や宮司さんの家などが立ち並んでいて、古城跡という雰囲気はあまりなかったり。もっとも、城が生きている間はそれこそ所狭しと建物があったはずなので、ある意味では当時の雰囲気を伝えているともいえます。





 季節的にちょうど藤の花が盛り。新田義貞最期の地が藤島だからそのつながりで植えたのかな、などと思ったのですが、このあとこの神社だけでなくこの地方一体各地で目にしました。義貞関係なく名物っぽい。



 南朝の忠臣を祀る神社だけあって勤王事績を称える碑とか皇室関係の記念物とかが多く、なんというか南朝スピリットとかそういうものがほとばしっているような気がします。 …にしても皇族腰掛石は多すぎる(笑)。記してある日時を見ると、昭和天皇が腰掛けたのはまだ8歳くらいの時のようですね。それ以外の方々も若いというか幼い時期に座っている感じ。東京からはるばる連れて来られて座らされたのでしょうか。



 新田宗家当主、新田政邦氏が建てたと思われる碑。





 こちらの碑の建設委員長は中島知久平。



 半ば埋め込まれて詳細不明ですが、なんの砲弾でしょうか。





 イスラム教のメッカの方角を示すアレのように、遠く東京の皇居方面を示す宮城遥拝所。かつてはここで1日6回だかの祈りが捧げられていたのでした。ちなみにスバルの工場内にはこの城の中島知久平像の方角を指す遥拝所があって、従業員が毎日無事の操業を願って朝に礼拝を… いやそんなことはさすがにないと思いますが。 …ないよな?





 本丸にあった金山城の解説板。城の構造のところにある「日本式山城と朝鮮式山城との混合形式」というくだりがいったい城のどの部分のことを指すのかさっぱりわからないのがアレですが、まあ、気にしない事にしましょう。





 本丸の下には石垣が少しだけ残存。



 二の丸は筍畑というか竹林になっていて立ち入り禁止。三の丸も前述のとおり神社関係の建物などが並んでいるので、この城最大の見所である大手の石垣群に回ります。



 大手の外側にある月ノ池と対を成す日ノ池。戦勝祈願や雨乞いなどの神事が行われた神聖な場所だったようです。月ノ池と同じく英語でいうとthe pond of sun。かっこいい。



 金山城大手石垣群。関西系の石垣とは違ってそれほどの高さはないものの、複雑に折り重なる曲輪と石垣はまさに圧巻。





 この階段状になってる部分とか、





 岩盤と石垣という自然と人工物の融合とか、もうたまりません。



 大手の曲輪に復元された建物の中にはかまどが。



 大手石垣群を上から。



 別にいいけど「金山城の土塁は石垣で造られているのが特徴」って、なんか大いなる矛盾を感じる言い回しですよねえ…



 大手を見終わり、行きにとっておいた物見台に寄りながら駐車場に戻る。ついでだから麓のガイダンス施設にも寄ります。麓には百式重爆呑龍の名前の由来になった大光院という寺もありますが、とりあえず今回は前を通っただけ。



 ガイダンス施設にて見かけた俳句。この句からわかること、すなわち 知 久 平 は 神 。



 市街に降りて、中島もといスバルの工場前へ。ここにある伊勢屋という和菓子屋さんにはスバルの形をしたスバル最中や360焼きなるお菓子が売っているとのことでおみやげに購入。旅行最終日に従姉の子供たちにあげたら大好評でした。



 太田市を出て、栃木県足利市へ。結局昼食は足利についてから食べることにしましたが、太田市でなにかないか探している時に見つけたチラシ。イタリア風焼きそばって一体… あと4つめの店の順位付けもなんかおかしい気がしますが、日本とグンマーは別の国だとかなんかそういう話でしょうか。

 というわけでグンマー・トチギスタン国境を抜けて足利に到着。しかし、実際に群馬栃木の県境は錯綜しすぎです。場所によっては埼玉や茨城も加わりますが、ナビを見てると真っ直ぐの道を走っているだけなのに何度県の表示が入れ替わったことか。



 昼食は足利名物だということでポテト入り焼きそばを。味は… うん、芋が入った焼きそば、ですね。芋が入っている分ボリュームはあります。



 足利での目的地は鑁阿寺。足利氏の氏寺であると同時に足利義兼までの足利家の居館跡でもあり、鎌倉時代前後の武士の館の形跡をよくとどめていることから日本百名城の一つに数えられています。



 とはいえ、「城」の痕跡は周囲を方形にめぐる土塁と堀くらいでしょうか。まあ、それだけでもきれいに全体が残っているというのは確かに貴重といえば貴重。



 本堂。鎌倉時代の1299年建立。他にも1196年義兼創建の鐘楼(これは写真撮るの忘れた…)や1407年再建の一切経堂など、かなり古い建物が目白押し。あのしっちゃかめっちゃかな関東の戦乱をよくくぐり抜けたものだと思いますが、さすがの鎌倉公方や古河公方(関東のカオスはだいたいこいつらのせい)も自分のところの氏寺まではさすがに手をかけなかったということでしょうか。



 境内北側にひっそり佇む御霊殿。足利大権現と称し、拝殿に足利幕府歴代将軍の木像を祀り(この日、木像は一切経堂で公開されていました。撮影は不可でしたが)、奥に足利市の祖義康とその父にして八幡太郎義家の子、義国の墓があります。



 足利義兼の妻、北条時子を祀る蛭子堂。寺全体でももっとも目立たない建物ですが、やる夫鎌倉幕府が好きなので色々と感慨が。ナギ… じゃなかった、時子さま…



 山門は足利義輝の再建。やたらと人が多いのは、この日たまたま足利市内のウォーキングデイかなにかがあったからのようです。



 市内に建つ足利尊氏像。おとなりの太田市では新田義貞がかなりフィーチャーされてましたが、戦前までの立場もあってか足利での尊氏のアピールは心なしかおとなしめの感が。私は大河太平記が歴史への入り口の一つだったこともあって大好きなんですけどね、尊氏。あの時代最強クラスの武将でありながらなんともややこしい性格をしているあたりがたまらなく愛しいというか。



 鑁阿寺のすぐ近くにある足利学校。「日本最古の大学」として有名ですが、創建の時期とかはよくわかっておらず、ただ上杉憲実が復興したことだけは確か。





 孔子71代傍系子孫と顔氏74代子孫手植えの木。よく記録してるもんだなあとつくづく。



 学校門とこの孔子廟は江戸時代以来の建物。孔子廟としては世界一シックな建物といってもいいような気がします。本来の孔子廟はあの国らしいド派手な建物であることが多いですし。



 この建物は復元っぽい。庭も。



 たまたまイベントの日だったからかはわかりませんが、地元の高校だか短大だか大学だかの女の子たちが袴姿でなんかPR活動っぽいことをしていました。うむ、眼福眼福。さすがに堂々とカメラ向けるのはためらわれたので、その活動のイメージキャラクターっぽいものを。



 足利学校の次は織姫神社に。今回は行きませんでしたが、この神社の裏山が足利長尾氏の居城、足利城(両崖山城)。



 

 なぜこの神社に来たかというと、こんなキャラがいるから。足利ひめたま、なのはのキャラデザの人が手がけたキャラです。あ、そういえば足利、ヨスガノソラの聖地でもあったんですね。帰ってから調べて気づきました。



 境内には痛絵馬が… いや、痛絵馬というか公式グッズ的な感じのものですね。



 グッズとかは神社ではなく足利商工会議所・友愛会館に売っています。 …ってとんでもない名前だなあ友愛会館。建設当時は意図していなかったにせよ。とりあえず水とラムネ(ピーチ味)とソース二種など買ってみる。水とラムネはともかくソースって珍しいですね。ソースとかってだいたい雫が垂れてラベルの部分が汚れたりしてしまうような気もするのですが、まあ、気をつけて使うしか方法はないか。





 ここでも藤が見事に咲いていました。



 この日最後に向かったのは足利市郊外にある栗田美術館。日本で唯一の伊万里、鍋島のみに焦点を絞った陶磁器美術館。この美術館もすごいところでした。どういう意味ですごいのかは、この文言を見てもらえるだけでも少しわかっていただけるかと思います。すなわち、一個人がおのが精力と財産(一説には500億円超とも)のすべてを注ぎ込んで完成させた、この分野では世界でも有数のコレクション。まさに漢の浪漫の結晶といえるでしょう。
 この博物館を作った栗田英男、衆議院議員だったり総会屋だったりして「田中角栄を呼び捨てにできる数少ない男」であったなど、いろいろと生臭いというかなんというかな人物のようですが、そうやって集めた金でもこういうことに突っ込んでいるのならなにか許せるような気がしてしまいます。もちろん館内の解説文も彼の手によるもの(と思われる)。さらには人任せに金の力で陶磁器を収集するだけでなく、インドネシアの方の沈没船からの陶磁器の引き上げに自ら出向いたりもしているようです。そういった「創設者が自分の手でなんでもかんでもやる」系の博物館って、往々にして思い入れが強すぎてあさっての方向にぶっ飛んでいったり途中で資金がつきたりしてパラダイス化してしまいがちですが、ここはそんなことも全くなく(ただし、解説文などでは時々溢れ出るパッションを抑えきれてなかったりもする)、それどころか博物館法上の認証まで受けてしまっているというのもすごいところ。



 なお、博物館内には栗田英男の母が収集していた石仏を安置するために古刹の建物を移築したエリアがあったり、生涯一度も作品を発表しなかった孤高の芸術家にして栗田の弟を記念する建物があったりもします。ここらへんの「俺がやりたいことをする」という信念を貫いているスタイルも実にステキ。しかし、息子は伊万里収集が趣味で母は石仏収集が趣味とか、血筋というものは確かにあるんですねえ。あと作品を発表しない芸術家ってそれ要はニーげふんげふん。



 思いがけず面白い美術館に出合って満足しつつ、足利市内に戻り夕食。これも足利名物ということでソースカツ丼。値段の割に結構なボリュームでおいしゅうございました。

 その後はMURAJIさんと別れて東京に帰還、この日と翌日は浅草のホテルに宿泊。北関東方面に出るなら上野に近いほうがいいかなという判断なのです。
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