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ばっくとぅとっぷ


今日の萩日記 9月14日(土)


 9月の第一次三連休。どこに行こっかなーどうも東のほうは台風とか来そうで危ないなー… よし、最近長門が出ないだの長門が来ないだのそんな話ばっかり聞くから、 …逆にこっちから長門に行こう。長門さんの中で火遊びヒャッハー(それは妹のほうだ)。



 それが目的地選定の理由なわけはもちろんないのですが、今回は山口県の日本海側、長門国は萩に来てみました。萩市のメインステーションは萩駅ではなく東萩駅。しかも、この駅に辿り着くまでの手段は鉄道ではなく新幹線新山口駅からのバス。 …この不便さが今まで訪問に二の足を踏んでいた理由だったりするんですよね。実は今回、同じ山口県の瀬戸内側、周南市に住んでいる友人に声をかけたりもしたのですが、同じ県内からでも3時間はかかるからやだとか…

 日本海に注ぐ阿武川の三角州に位置する萩旧市街。広さ自体はさほどでもないですが、東萩駅から萩城や武家屋敷などは反対側に位置するのでレンタサイクルを使って移動。 …しかし、暑い… 低気圧の影響か、湿度も8月並に高い…



 駅からしばらく西に進むと出くわす外堀(復元)。



 さらに進むともう一本水路がありますが、これは後世に開削された運河。萩城にある半島状のエリアはこの運河で本土から分断されているようです。画面奥に海が見え、運河の水の色も心なしか普通の淡水とは違う感じがします。



 運河沿いに海側に出て城を望む。そびえ立つ山は詰の丸のある指月山。標高143mとはいえ、海からそのまま立ち上がっているので存在感はでかいです。三角州の末端にこんな山があるのも不思議な感じがしますが、この山自体はかつて大陸から来た花崗岩の塊だとか。





 運河と海に面した二の丸の石垣と復元銃眼土塀。







 二の丸の門を出たらすぐ、足元に波が打ち寄せる岩場が拡がる。あまりイメージになかったのですが、結構海城の色彩がある城だなあと思います。 …しかし、こんなに海からの攻撃をダイレクトに食らいそうな城を本拠地にして攘夷を決行するとは… 薩摩もそうですが、初期の攘夷論じゃというのはなんてこうキチガ… もとい命知らずで勇猛果敢だったんだ…



 本丸に鎮座する志都岐山神社。主祭神は毛利輝元、元就、敬親ほか歴代藩主も祀る。萩を開府したんだから当たり前といえば当たり前ですが、メインが輝元で元就が脇というのは面白いです。 …え? 隆元? 知らない二代目ですね…



 しんどいことは先にやってしまおうということで、本丸内の他の遺構を見る前に詰の丸のある指月山に登ることに。前述のとおり海、つまり標高0mからそのまま立ち上がっていて標高=比高であるため、額面上の数字よりきつく感じます。勾配も結構急ですし。加えてこの日の暑すぎる気温と折からの寝不足(ダイヤの都合で始発出撃している上に、前日艦これのデイリー任務の消化が遅れてうっかり3時間睡眠)でへろへろに。 …ただ、それらの条件より何よりひどかったのは、藪蚊の襲撃でした。結局、数えられる範囲で30匹は撃墜して、それでも20箇所以上噛まれて左肘のあたりとかぼこぼこに変形するような惨状に…



 指月山はミカドアゲハの生息地であるなどの理由で天然記念物指定されており、それがために山頂付近の樹木などは伐採できず眺望はない、おまけに急勾配だよと麓の案内板に注意がありましたが、ついでに道中の道標でもこのように「展望台なし」と念押しされています。 …ひょっとして、管理当局的にはこの山あんまり登ってほしくない?



 藪蚊の襲撃に耐えつつ登ること20分、詰の丸の石垣が見えてきました。







 詰の丸虎口。詰の丸全体のサイズや技巧はそんなでもない(もちろん、往時のように櫓が立ち並んでいたらという点は別)ものの、このコの字型に折れ曲がった虎口はさすが関ヶ原以降の城、という感じがします。



 城内は二段構造。山麓の城とは別個に本丸、二の丸となっている模様。なお、指月山には毛利輝元の入府以前から吉見氏の城が築かれており、吉見正頼の隠居所などになっていたようです。



 本丸に転がっている巨石。まわりに掘ってある溝というか穴は貯水池として利用されていたようです。詰の丸にはこんな感じの穴がもう一つありましたが、井戸は見当たらず。本格的な籠城戦になるとどうにも心もとないようにも思います。もっとも、山麓の本丸が陥落してこの広くはない山上に押し込められた段階で勝負は決しているといってしまってもいい気はしますが。ともあれ、巨石に鏨のあとが残っているところを見ると、築城に使った石はこの山で自給自足していたのでしょうか。



 こちらは搦手側の虎口。この先に続くはずの道は失われているっぽい。



 写真を撮ってる間も絶え間なく続く藪蚊の襲撃に耐えかね、逃げるように下山。次に目指すは天守台。



 萩城天守は5層5階の望楼式、明治初期の古写真などにその姿を残しますが、維新をやらかした張本人である長州藩のお膝元だけあってさっさと解体されてしまいました。写真は東萩駅の前にある1/6再現模型。





 天守台から城の内側と外側を。



 天守台から眺める指月山。登ってから言うのもなんですが、一つの城というか同じ敷地内にある別個の平城と山城みたいです。まあ、鳥取城とかも似たようなもんですし、よくある話ではありますが。



 天守台横、多聞櫓跡の石垣。往時はこの階段(ってか雁木)を登り降りして多聞櫓に入ったのでしょう。



 本丸大手を出たあたりから見る天守台と指月山。多分萩城で一番有名な構図。



 最後に天守台を見て、今は土産物屋などが立ち並ぶ二の丸大手方面から城を出ましょう。



 二の丸大手門跡に鎮座する毛利輝元像。叔父さん達の躾でなんとかやってたボンクラ扱いされることの多い人ですが、どうも嫌いになれません。 …いや、勝手なボンクラシンパシーとかじゃなくて。





 城のすぐ前に残る、厚狭毛利家萩屋敷長屋を起点に、古い町並みと建物が残る萩城下町の散策を開始。厚狭毛利家は毛利元就の五男、毛利元秋→八男末次元康と続き、長州藩家老として続いた家。二の丸の真ん前に屋敷を構えているあたり、家格の高さが窺えます。





 続いて毛利輝元夫妻と殉死者一名の墓所。



 さらに口羽家住宅。戦国時代の口羽通良はゲームとかで知名度があるかと。



 口羽家前、道路がクランク状に曲がった「鍵曲」。いかにも城下町な、攻め手に厳しく現代の交通事情にも厳しい町並み。とはいえ萩は道路が直線主体で構成されている分まだマシかもしれません。これで道が微妙にカーブしてるとかそういう小細工が施されていたら悪夢以外の何物でもありませんし(笑)。

 構造上の面倒くささはともかく、石垣+白壁と海鼠壁のコンビネーションが織り成す美しさ、のんびり散策したり自転車で走るには最高です。





 毛利別邸表門、福原家萩屋敷門。



 長州の歴史は江戸時代で終わりではなく、むしろその後、明治・大正・昭和に元老元勲や総理を量産しだしてからが本番でしょう。写真はそんな長州人たちの代表の一人、総理・陸軍大将田中義一男爵。 …誰ですか、満州某重大事件の時に総理だったせいで先帝陛下の激おこぷんぷん丸くらってクビが飛んだどころか死んじゃった人、とか言うのは。 …どうでもいいけどうぃきぺに載ってるこの方の軍服写真、無邪気な笑顔が素敵。悪い人ではなかったんですかねえ、個人的には。





 久保田家住宅、菊屋家住宅を見たあたりで、 …体力が尽きました。なんだかんだで飯も食わないまま、この時点で2時半過ぎでしたので…  



 と言いながら、補給したのは夏みかん味のかき氷だけだったり。ちゃんと夏みかん果汁が入っているのか、合成香料だけでは出せないようなしっかりとした苦味が疲れた体に心地よい。普段かき氷は合成甘味料と着色料全開こそ至高派ですが、こういう時にはその主張も曲げざるを得ません。 …ここまで書いて普通に成分が合成香料だけだったらどうしようという気もしますが、まあ、その時はその時で(笑)。



 かき氷を補給して回復、散策続行。まずは桂小五郎こと木戸孝允旧宅。



 …の、夏みかん。維新後失業した武士たちの副業として栽培が奨励されたこともあって、萩の城下町は夏みかんの木だらけ。 …って、既に上で夏みかん味のかき氷とか食ってるので何をか言わんやという感じですね。しかも時期的に実は青いし。



 木戸孝允旧宅内にて。勝者の余裕、とはこのことか。



 木戸孝允幼少時の手習い。偉い人にもなると子供の頃の習字や柱に書いた落書き(そっちはうまく撮れなかったので写真略)でさえこのように飾られてしまうとなると、さて立身出世というのはすべきものなのかどうなのか。





 続いて「幕末長州で一番かっこいいイメージの人」(私内調査)、長州征伐の戦場で三味線抱えて無双した漢(数年前の大河の話)、高杉晋作旧宅。



 その旧宅に展示してあった高杉晋作、西郷隆盛ほか一名の人相書。載せるかどうか迷った程度の残念な写真ですが、文書の性質上結構あちこちで展示されているらしく、ネット上でもまともな画像を探すのは容易なので興味のある方は探してみてください(適当)。残っている晋作の写真と比較して、精度は… というところなので、これを配布されて捜索せざるを得なかった当時の目明しや同心たちの苦労を察していただければと。



 木戸孝允、高杉晋作として次に有名な長州人といえばやっぱりこの人でしょうか。 …若干どころか結構な割合で悪名要素が混ざっているような気もしますが。ということで山県有朋像。ということで、無駄に偉そうな騎馬姿。



 いや、山県以上に有名な人を忘れていました。大日本帝国初代総理大臣にして女体盛りの祖、公爵伊藤博文! …ってなんか、こう、いっちゃ悪いが貧相な銅像だな… なんというか姿勢が悪く見えるような…



 というわけで伊藤博文生家。



 さらにその横に移築された、かつては品川、というか大井町近辺にあった伊藤博文別邸。この別邸の移築との他、今まで見てきた武家屋敷群は結構最近に一斉修理されているみたいです。木造の日本家屋なんてちゃんと手入れしないと傷むからどうしようもないですしね。



 別邸内部、吉野杉一枚板の鏡天井。ただし東京から萩に輸送する際に、トラックの都合で切断してしまったため今は… って一時期の疾風に関する俗説かよという感じです。



 詳細は写り込んでいる解説板に譲りますが、木戸孝允宅の手習いとは別の意味で「偉人ってこんな手紙も晒されるんだ…」と思ってしまうような手紙。

 萩の地理を知っている方ならわかるかと思いますが、実は順番が前後して先に松陰神社に寄っています。松陰神社自体は明治以降に建立された神社にありがちな、でかくてきれいな神社ですが、その境内にはあの明治維新のゆりかご、松下村塾が保存されています。



 これがその建物。話には聞いていましたが、小さい。いや、この狭さだからこそ、松陰の熱気が膝突き合わせた塾生に伝播して維新回天の大業を成し遂げさせたのでしょうか。 …間部詮勝暗殺計画? …さあ…



 塾内・講義室に飾られた松陰先生。



 松陰神社本殿。



 まずどういう人選だよ、と思い、「萩高47期卒業生が〜」というところで「あ、この人も卒業生か」と納得しかけ、結局萩の出身者でも萩高卒業生でもないことに思い至ってクビを3回転半ほどひねる。いやいいけど別に。



 松陰神社の売店にて。正確にはこれまでに訪れた諸所の売店でも見かけてはいましたが。いいのかなあこれ。許可を得ているにしては雑というかシンプルっぽいタッチだけど。





 続いて松陰神社のすぐ横にある、郡司鋳造所跡へ。大砲の砲身とかを鋳造していた場所ですね。上の三つの炉から溶かした銅だか鉄だかを真ん中の鋳型に流しこみ、大砲を鋳造するわけです。



 出来上がった大砲のレプリカ。ここで鋳造された大砲は下関戦争でも使われたそうです。昔、パリのアンヴァリッドでフランスが下関戦争で長州藩から鹵獲した大砲が何門か展示、というか転がしてあったのを見た記憶がありますが、もしかしたらそれらの大砲のいくつかはここで鋳造されたものかもしれません。



 松陰神社方面からさらに市街地を離れ、この日最後に向かったのは萩反射炉。反射炉というと伊豆韮山のものが有名で、各地に建造されたようですが、現存するものはその韮山の他にはここ萩のものだけのようです。



 どうでもいいけど「反射」炉というと、どうしても地球連邦軍のソーラ・システムが連想されちゃうんだよなあ…



 …と、そんなところで日も暮れてきたので作戦終了。折角海沿いの街に来たんだからということで夕食は海鮮丼です。残念ながらあいにくの高水温のせいでウニの量は少なめだったけどうまいぞー!

 …その後、いい気分でチェックインした古くて小さいビジネスホテルの部屋の風呂場天井の点検口蓋に何故か血痕が飛び散っていたりしましたが、うまい飯とビールでいい気分になった私は気にしませんでした。ええ、ベッドの下とか不自然に飾られた絵画の額縁の裏とかにありがちな御札とかなかったですし。大丈夫大丈夫。 …今のところ、な。

今日の津和野日記 9月15日(日)


 山陰旅行二日目。残念ながら期待していたような怪現象は起こらず。 …期待?

 ともあれ、次の目的地は県をまたいだ島根県津和野町、萩からはバスで一時間強。





 本来なら山口線でSL山口号に乗って… などという旅もできるのでD51が展示してある津和野駅前。どっちみち萩からだとそういうわけにはいきませんけど。 …つくづく萩、陸の孤島だなあ。そんな立地だからこそ徳川幕府が開府を許可したという話も十分うなずけるくらいに。





 萩と同じように駅前のレンタサイクルで自転車を借りて、城下町を駆け抜けつついざ城跡へ。津和野の城下町、道や町並みが美しく整備されているだけでなく、道沿いの水路に鯉が放たれていたりして風情があります。



 市街を走っている時に見かけたカトリック教会。





 木造の外見やステンドグラス、祭壇と畳敷きの参列席(というのだろうか)の不思議な調和。こういうバランス、好きです。



 津和野城跡へは太鼓谷稲成神社を通じて。日本五大稲荷の一つ、らしいですが、まあ、私はその中でも筆頭であるべき伏見稲荷を知っていますからね。10分以上にわたって鳥居が連なる参道も格別珍しくなかったです(謎の強がり)。 …実際のところ、伏見稲荷の時に感じたほどの神秘性というか怪しさというかはなかったです。「山道」というよりは山に沿って「作られた」道に鳥居が立ってるだけ、という基準で区別していたのか、と自己分析するところ。いや、基準というにはあまりに曖昧すぎる話ではあるのですが。



 稲荷神社本殿。車で登れる別ルートもあり、参拝客は多め。しかし、私にとってはこの神社は通過点… というよりは出発点にすぎません。



 神社から少し進んだところにあるリフトで登ってしばらく歩いた先、それが目的地、津和野城跡です。



 リフトからの道中で見られる中世期の堀切。近世城郭として改修される前の津和野城は三本松城といい、吉見氏代々の居城でした。戦国時代には吉見正頼がこの城で陶晴賢を撃退する籠城戦を演じています。吉見正頼は昨日の萩城のところでもちらっと名前が出てきました。山陰といえば大内、尼子のち毛利というイメージが強いですが、昨日今日行動しているあたりはもっと直接的には吉見氏の勢力圏だったんですね。



 出丸(織部丸)から城域スタート。





織部丸の石垣。出丸というだけあって本丸以下とは別の独立したピークに位置。北から登ってくる敵への前哨陣地といったところでしょう。



 城跡碑は出丸と本丸との間、一段下がったちょっと中途半端な位置に。それにしても、昨日ほどではないもののやっぱり暑い。そして相変わらず藪蚊の群れが。だがしかし、この私とてそうそう同じ轍を踏みっぱなしではない! 昨日指月山から降りた後、ドラッグストアで虫除けスプレーを緊急配備していたのだ! どうだモスキートども、これで近寄れまいフハハハ。

 …まあ、滝のように流れる汗であっさり流れ落ちてる気がして何度も何度もスプレーする必要があったり、確かに噛まれはしないものの耳元をぶんぶん飛び回られるウザさは相変わらずだったり、カメラを構えて立ち止まっているとスプレーをもろともせずに突っ込んでくる奴がいたりで、結局鬱陶しいことに変わりはなかったのですが…





 二の丸の石垣が見えてきました。





 近世山城の醍醐味といえる、折り重なるような石垣群ですが、崩落防止シートやネット、仮足場などがやたらと設置されています。この7月にあった大雨災害の影響か、それともそれ以前からこの状態だったのか。どうせならしっかり補修してくれればとつい思ってしまいますが、それも難しいんでしょうね。そもそも城主の亀井氏(自称「琉球守」亀井茲矩から始まって静香じゃないほうの政治家の亀井家につながる)でさえ、山頂の城は使わずに麓に藩庁を建ててそこを藩政の中心にしていたくらいですし。



 西門櫓跡。



 横線が東から西に伸びた逆「ト」の字型の城域の横棒部分、台所曲輪。草ぼうぼうでわかりにくいですが、よく見ると地面が石列で区画されているように見えます。建物の跡なのか、単に整備の際に道を作ったけど草に埋もれただけなのか。



 天守台。本丸ではなく一段下の二の丸にあるというちょっと変わった構造。それだけなら他に例がないこともないのですが、この城で不思議なのはこの場所からだと本丸が邪魔をして山麓から天守の姿が確認できそうにないこと。確かにこの場所は城内の通路を完全に押さえる位置なので純粋な防御的観点からはこれはこれでアリなのかもしれませんが、しかしそれだったら別に天守じゃなくてもいいじゃん、という気もして、よくわかりません。なお、肝心の天守は1686年に落雷で失われています。



 太鼓丸と三十間台にわかれた本丸のうち、太鼓櫓の石垣。



 場内最高所、三十間台。





 規模はさほどでもなく、構造的にもシンプルであるため本家の竹田城と比べると、ではありますが、山頂にまっすぐそそり立つ石垣と開放感のある曲輪内、天空度がなかなか高くて気持ちいいです。いやどんな尺度なのかよくわかりませんけど天空度。今適当に考えたので。これで天気が良ければ最高だったのですが、台風が接近しているような状況下で雨が振りださなかっただけで御の字なので贅沢は言いません。



 三十間台から見下ろす津和野の町。山間部の川に寄り添う細長い町並みが一目瞭然です。



 三十間台の下にちょこっと寄り添う人質曲輪と、その先に伸びる三の丸。曲輪というよりは櫓台といったほうが適切な規模。この城を大改修した坂崎直盛といえば戦国スイマー宇喜多秀家の従兄、坂崎直盛。彼自身は千姫に対するストーカー事件の犯人として悪名を残されてしまっています(当然、真偽の程なんて知ったことではありません)が、計画成功の暁にはこの曲輪に千姫を監禁して夜な夜なあんなことやこんなことをするつもりだったのでしょうか。

 …さんざんおちょくったようなこと書いてますけど、為政者としての直盛は今の津和野の基礎を築いたとのことでなかなかの名君だったようです。 …ただ、個人としての性格はなあ…千姫の件だけじゃなくて富田信高との諍いなんかを見てると、どうも… 改易の際に交情がクローズアップされるのも、よりによってというかこの地に配流されていた出羽の脳筋こと小野寺義道なんていう微妙な人物だったりするし…



 三の丸から見上げる人質郭の石垣。 …やっぱりこっちが天守台といってもおかしくない立地だなあ。



 三の丸から南に続く中国自然歩道の先にも中世の曲輪群や二重堀切、三重堀切、さらに畝状竪堀などが確認できる支城の中荒城などが存在するのですが、7月の大雨の影響で通行止め。おとなしく撤退する、とします。 …まあその、察してください。一つだけ言えるのはこの津和野城も中世城郭を近世城郭に大改修した山城の例に漏れず、わかりやすい石垣の部分だけからは想像もつかない大城郭がかつては拡がっていたんだ、ということでしょうか。



 城からの帰り道でスネークに遭遇。模様からするとヤマカガシか。そうであるなら姿を見たのは生まれて3度め、15年ぶりくらいですね。一般的におとなしかったりかつては子供が普通に振り回して遊んでいたとはいえ、おもいっきり毒蛇なので細心の注意が必要ですが、こちらに目をくれるでもなく微動だにしなかったので珍しく撮影に成功。ひなたぼっこでもしてたんでしょうか。



 帰りも当然リフトで。 …というか、さっき見たように登山道は通行止め。リフトは登る時より降りるときのほうが楽しい。



 麓にある蕎麦屋で山葵蕎麦を昼食に。





 既に少し書きましたが、津和野藩庁は急峻な山頂を避けて山麓に建てられていました。今は津和野高校のグラウンドになっていますが、門の位置は当時のそれと同じ位置。



 グラウンドの近くには馬場先櫓と物見櫓が現存。こちらは馬場先櫓。





 物見櫓のほうは櫓というよりは蔵っぽい。いかにも平和な時代の建物という感じがします。





 市街に戻る前に、ちょっと外れたところにある脚気とドイツ少女泣かせの人、森鴎外の生家へ。 …なんかこの旅行、城跡のほかは誰それの旧宅だの生家だのにばっかり行ってますね…



 鴎外生家の庭から見上げる津和野城。鴎外もこの景色を眺めて過ごしたのでしょうか。



 駅に戻って本日の宿泊地、米子へ。つまり島根県を西から東に縦断して鳥取県にちょっとはみ出ることになります。何度か書いているとおり、このあたりは7月の大雨で大被害を受け、山陰線等の鉄道は未だ一部が復旧しておらず、津和野から益田までは鉄道代行バスで輸送。 …ここまでは事前に計画に織り込んでいたのでよかったのですが、その先、益田から浜田は運行しているものの浜田から江津までの間がまた不通だという点を見落としてしまっていました。代行バスはこの区間も走っているものの、列車との接続などの関係で米子に着くのは当初計画より2時間も遅い23時過ぎになる見込み…



 まあ、だからといって他に選択肢はないのでとにかくバスと鉄道を乗り継ぎましょう。そんな益田駅のホームにて。ピンクの女の子と黒い女の子を見て一瞬まどかとほむほむ? と思いましたが、青がさやかちゃんっぽくないので多分違いますね。というか、この年季の入り方からして絶対違う。



 このあたりで最期を迎たとかで益田駅ホームに鎮座していた柿本人麻呂。いやちょっとあんたなんか怖いがな。



 益田〜浜田間の列車から、夕暮れの日本海。しかし、今まであまり意識してこなかったのですが、島根県って結構横に長いんですね。あとで地図を見てみたところ、静岡よりちょっと短いくらい。18キッパーにとって長いとか永遠の代名詞みたいになっている静岡に匹敵する長さで、かつ交通網が静岡とは比べ物にならない(しかも今は非常運用)わけですから、なるほど、突破に時間がかかるわけです(当初予定で5時間半、この時点の見込みで7時間半)。静岡はなんだかんだ行って電車自体はあるしなあ。新幹線も止まらないだけで通ってるし。



 浜田〜江津間の代行バス。こういう時ってJRバスだけじゃなくて他のバス会社もチャーターするもんなんですね。



 江津から先は再び鈍行でひたすら進むしかないと津和野駅では教えられたのですが、なぜか江津から出雲市まではさらに小型バスを出してくれました。理由は特に聞かなかったのですが、接続的に終電に間に合わない乗客がある程度いたとか、そういう理由だったりするのでしょうか。よくわかりませんが、案外柔軟な運用なんだなあと。まあ、早く着けるに越したことはありませんのでありがたいことです。



 交通量が少ない地域であることとこの小型バスの頑張りで、なんと当初予定からわずか30分程度の遅れで出雲市に到着。しかも、本来なら発車時刻を過ぎているはずの特急スーパーおきが対向車待ち合わせで遅れているという幸運に恵まれたので一も二もなく飛び乗ります。結果、当初予定よりもむしろ少し早いくらいの時間に米子に到着。これこそ出雲の神のご加護かもしれません。素通りしたけど。 …いやほら、一度お参りしているので、今回はということで…





 米子駅にて。「偶然まんが王国とっとりで列車にペイントされた俺達は」。

 …その、こんな危険な電車を走らせていたら、沿線住民が事件に巻き込まれまくって気がつけば半減していた、なんていう事態に陥ったりしないのでしょうか、鳥取県…

 駅前のホテルにチェックインした瞬間からそこそこ激しい雨。あーよかったー一日保ってくれた、明日の朝には止んでるといいなあなどと呑気なことを思いながら就寝。 …その時、本領である真首都や琵琶湖県がどういう状況になっているのかも知らずに…
山陰城巡り 後へ



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