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山陰城巡り 前へ

ばっくとぅとっぷ


今日の月山富田日記 9月16日(月)


 朝5時、早朝からの作戦行動を敢行すべく起床してネットをチェック。Twitterを流れていく画像や在関西の友人知人の発言を見て、呆然。 …あのめったに台風被害を食らわない地域が大被害で特別警報発令、桂川や鴨川が氾濫してる…!? 

 次々入ってくる急報にまるで大戦末期に本土が空襲されまくってる様子を無線傍受している大陸のどっかで遊兵化した部隊のような気分になりつつも、日の出前から米子城へ。台風の直接の影響下にはないはずの米子も、雨はほぼ無視できる程度ではあるものの風はビニール傘が吹き飛ぶほどの強さ。 …そんな中、まだ日も登るか登らないかの時間から城に登ろうというのは、正直言って少し狂っていたと、自分でも反省しています。いくら所詮町中の平山城とはいえ。



 足元と、あと樹の枝などが吹き飛ばされてこないか警戒しつつ、まずは本丸のある湊山と国道9号を隔てて向かい合う飯山へ。中世には砦が築かれ、米子築城後も出丸として使われた山ですが、今は英霊塔が立つのみ。一応案内板では石垣などがあるとのことでしたが、少なくとも頂上までの道沿いには見当たりませんでした。





 米子城は湊山・丸山と飯山の3つの山にそれぞれ本丸・内膳丸・出丸を築き、それらの間の山麓部に二の丸と三の丸(今はテニスコートや野球場)を配置した構造。大手の巨大な枡形から本丸方面へ登ります。



 湊山と丸山は一続き。まずは丸山の内膳丸へ。二段に分かれています。



 本丸、右が天守台、左は四重櫓。



 大天守は中村一忠が建てた4層5階。下に2段にわかれた石垣あり。築城技術的な問題はさておき、見ている分にはまっすぐ立ち上がってる石垣より変化に飛んでいて面白いです。



 そう、こんな感じに折り重なってるのが。



 四重櫓のほうは吉川広家時代の旧天守。こちらも取り壊されずに存続していたので、往時の米子城は新旧二つの天守が並立する、非常に豪勢な城でした。江戸時代を通して火災や落雷にも遭わず維新を迎えたのですが、競売にかけられるも買い取り手が現れず、最終的に風呂屋の薪として37円で売却されてしまうことに… この米子と萩、あとどちらかといえば山陽ですが津山あたりの天守や建物が現存していれば、ひたすら地味一辺倒の山陰地方ももう少し華やかになっていた… …ということもないですかね、別に。なんか結局戦争中に空襲食らって焼けたりしそうだし。



 本丸から河口方面の眺め。不穏極まりない感じの空ですが、日の出を迎えて気持ち明るくはなっています。 …というか日の出を迎える前(しかも悪天候)に木の生い茂った城山に登るなよお前というところではあります。



 天守台から見た旧天守台。



 天守台から見た内膳丸。



 そして、天守台から見た飯山。中村一忠が家老・横田村詮を誅殺した際に残された横田一族などがここに立て籠もる騒ぎを起こし、隣の松江藩堀尾氏から援軍を得て鎮圧するという騒ぎになっています。ついでにこの時、客将として米子にいた柳生宗厳の四男柳生宗章が横田側に着き、敵兵18人を切る大立ち回りを演じた末討ち死に。立て籠もった場所については内膳丸という説もありますが、内膳丸だと尾根続きなのでさすがに近すぎるんじゃないかな、というふうに思ったり。もっとも、別に生き延びるために立て籠もったというよりは意地を見せるための死に場所に選んだだけだとすると、立て籠もる場所の遠い近いとか有利不利なんてどうでも良かったのかもしれません。米子藩はこの事件そのものでの取り潰しこそ回避するものの、わずか6年後に藩主一忠が20歳の若さで急死。その後一瞬だけ伊予大洲に移る前の加藤貞泰(清正、嘉明、光泰の三加藤のうち一番地味な光泰の子)が入ったあとは鳥取藩領となり、米子城は鳥取藩の伯耆の支城として存続することになります。



 そろそろいい時間なので一旦ホテルに帰りましょう。といっても7時ですけど、まだ。まさに朝飯前の登城なのでした。その移動中に見かけた福助ですが… なんだこのなにか言いたそうってか腹に一物抱えてそうな顔は…



 さすがまんが王国を名乗るだけあって、色々努力が始まってるんですね。



 ……!?

 ホテルに帰還し、朝食とシャワーを済ませてチェックアウト。米子から電車で一駅の安来に移動。島根県に再突入。



 次なる目的地は尼子氏の本拠地月山富田城。というわけで駅前でお出迎えしてくれるのはやっぱりこの人、月に頼んで七難八苦の山中鹿介。



 そして、尼子十勇士の愉快な面々! …同じ十勇士でも真田の方はメジャー、こちらはマイナーにとどまっている感じがしますが、どうして差がついたかって理由の一端はこの適当極まりないネーミングセンスだよなあ… なんだよ尤道理介って。確かに真田の方はニンジャ集団という特殊属性があって有利ではありますが、明らかにそれ以前の問題が…



 鹿介はやはり、お膝元たるこのあたりでは今でも相当なヒーロー(もしくは町おこしのネタ)であるようです。尼子再興の理想を掲げるのはいいとして、その尼子のかつての当主義久が毛利家に軟禁されっぱなしなのにそっちはほっといて傍系の子孫を担いで挙兵するとか若干それはどうなんだろうという点があるようにも見えるというのが正直なところではあるのですが、多分それはそれなのでしょう。



 出雲は神の国なのでハーブティーくらいはあって当然です。



 ええ、神の国ですから。しかしなんだ、この歌…



 安来駅からバスで20分ほど、市立病院前で降車。道の駅に併設された歴史資料館の裏にそびえるのが月山富田城。



 道の駅で簡単なマップを貰って登城開始。登り口は3つありますが、搦手に当たるお子守口から登ります。



 登り始めてすぐの千畳平(平は「なる」と読むらしい)にある尼子神社。



 尼子神社にいたゆるキャラ、AMAGOくんと鹿乃ちゃん。「実はちょっと情けないやつ」扱いとか、AMAGOくん鹿乃ちゃんの傀儡になること決定しそうな設定ですが、いいんでしょうか。 …史実準拠だとしたらそれでいいのか。



 発掘調査中でしょうか。石垣らしきものが見えます。



 千畳平の一つ上、太鼓壇の山中鹿介像。有名な月に祈るポーズ。



 その次の奥書院平には忠霊塔。ここらへんまではそれなりの広さがある曲輪が順に並んでいる感じ。



 花の壇にある復元建物。



 中には顔ハメが。外で野ざらしになってるよりはマシ、なのかなあ。



 ここで隣の曲輪との間に堀切が。堀底道を通ってこの曲輪を回りこむように進む。途中、舗装された道になるのであっているのかちょっと不安になりましたが…



 無事、大手の下に出ました。このちょっと前にコンクリートの擁壁を登っていくシマヘビと遭遇。2日連続のスネーク。どうも台風や低気圧が接近している時には、蛇に遭う傾向がある気がします。かつて蛇が水神として崇められていたのは、ひょっとしてそういうことなのでしょうか。





 大手を登ったところが城の中心部、山中御殿(やまなかではなくさんちゅう)。非常に広大な曲輪です。3本の登城道もここで収束。







 尼子氏の城、というイメージが強い月山富田城ですが、尼子氏の滅亡後も毛利氏、堀尾氏と受け継がれて、松江城ができるまで重要拠点として使われ続けています。これらの石垣もおそらく堀尾氏時代に築かれたものかと。また、一部は整備の際に積み直されているようです。



 花の壇の建物をさっき回り込んだ曲輪から。

 花の壇までが月山富田城第1ステージ、山中御殿を第2ステージとすると、七曲り(当然実際のカーブはそれどころではない)の急坂を登って到達する、山上にある三の丸以降の詰の城は第3ステージでしょうか。月山の標高は190mちょっと、道はやや急ですが、台風の余波がいい感じに影響して気温は低く、風は適度に強い涼風になっていたので快適に15分ほどで登れました。こうなると台風さまさまです。同時に真首都本土では地形上水に浸かることはないにしても一度雨漏りで屋根が抜けている我らがボロ屋敷が崩壊している可能性とか、甚大な被害を受けた交通機関が私の帰宅時点でも復旧しておらず関西に突入できない可能性とかが頭をよぎりますが、そういうのは今更心配してもしかたがないことなのでやめにしましょう。





 七曲りを抜けきると三の丸の石垣が目に飛び込んできます。この城も米子城と同じく、石垣は低いものが階段状に、あるいは腰巻や鉢巻の形式で。築城(改修)された時期も1600年とほぼ同じ、入った領主も堀尾、中村という豊臣三中老の家(そんな制度が実在したのかどうかの議論はここではおく)ということで、似通った感じになるものなのかもしれません。



 三の丸内部。麓の曲輪も広いですが山上もなかなか。



 三の丸と地続きになっている二の丸。復元建物あり。



 二の丸からの眺め。なんとなく結構内陸に位置するイメージのある城ですが、右手奥に中海が見える程度には眺望は効きます。左側、山の稜線が少し凹んでいるあたりが京羅木山。大内氏や毛利元就が出雲に侵攻してくる際に布陣した山です。



 二の丸と本丸の間は大堀切で分断。これが月山富田城の最終防衛ラインでしょう。



 堀切の二の丸側は石垣で固めてあるのですが、本丸側は土のまま。単純に発掘整備の手が及んでいないという可能性もありますが、あるいは堀尾氏時代には本丸は放棄されていたのかもしれません。



 本丸から見た二の丸。



 本丸は縦にかなり細長い。ここにも山中鹿介記念碑が立ちます。 …あの、本来の城主の尼子さんは…



 本丸最奥にある勝日高守神社。保元の乱の頃から存在し、あの悪七兵衛景清とのゆかりさえあるとか。



 帰りは二の丸の下を通って戻ります。



 七曲りを降りる途中で存在に気づいた小曲輪。



 大手門のあたりに咲いていた彼岸花。気がつけばすっかり秋ですねえ。彼岸花は鈴蘭と同じくらい好きな花です。 …いざというときには頼りになりますし(なんのやねん)。



 城から離脱、お子守口への道を挟んだ反対側、巌倉寺の奥にある堀尾吉晴の墓。仏の茂助の異名を取りつつ、猪と取っ組み合いをして勝利するほどの豪傑。秀吉に稲葉山城への裏道を教えた伝説とかの人でもある豊臣家最古参の一人。出雲には孫、忠晴の後見として入りました。結局その忠晴も嗣子なくして死去し、大名としての堀尾氏は3代で耐えてしまいますが。



 墓の隣には、吉晴夫人によって立てられた山中鹿介供養塔が。鹿介の供養塔や墓はなんだかあっちゃこっちゃに存在していて何が何やらというところがありますが、実はそのうちの一つはたまこまーけっとのあの商店街裏の寺にあったりします。



 …こんなことを言うと呪われかねないとは思うのですが、この供養塔の先端部分、あれに似てるよなあ。ちん……



 道の駅の横にある伝・尼子興久の墓。尼子経久の三男に生まれるも、謀反を起こし最終的に切腹。この墓の前の芝生で本日二匹目のスネークに遭遇。アオダイショウのようにも見えましたが、一瞬のことで黒っぽい体色だったので別の種類の可能性もあります。平地に降りてきて油断していたので少しびっくり。



 道の駅で昼食。ボリュームたっぷりでなかなかいい感じの天丼。

 月山富田城周辺には新宮党の館跡や山中(山中御殿と違いこっちはやまなか)屋敷跡をはじめ尼子関連の史跡が点在しています。本当はじっくりとそれらも見て回りたいところですが、関西方面の鉄道がかなり混乱しているという状況を受けて可能な限り出発時間を繰り上げることに。とりあえず、バスが来るまでの30分程度で回れる範囲のものだけを見ることにします。



 飯梨川の河原に立つ尼子経久像。かっこいい。



 場内にいた鹿乃ちゃんとも違うキャラのようですが… まさかの新手…?



 鹿介と品川大膳の一騎打ちがあったとされる川中島一騎打ちの碑。当時とは地形が変わって川からは少し離れています。



 で、負けた品川大膳が葬られた場所。討ち取られた場所が場所とはいえ、敵城のすぐ前に葬られるというのもどういう気分なのでしょうか。しかも現在は墓の周り小さな畑で、ビールケースとか積み上げてあるし。

 安来駅からは特急やくもで岡山駅まで、そこからはのぞみ。安来駅で発券した時点ではまだ新幹線は新大阪で折り返し運転だったので京都までの切符は買えませんでしたが、車内で車掌さんに頼んで無事京都までの延長に成功(ただし自由席)。



 米子駅に止まっていた鬼太郎列車。



 やくもの車窓では大山がきれいでした。こうしてみるとのんびり帰ってきたように見えますが、実はこの列車が対向車待ちやら強風による徐行やらで遅れまくり、予定していた新幹線との接続がたった5分程度というピンチに。おかげで車両の写真を撮る暇もなく猛ダッシュで新幹線に駆けこむはめになりました。あと、新大阪の駅なんかは駅員さんのアナウンスもかなり混沌かつ殺伐とした状態だったり、新幹線の全ホームが埋まっていて構内に侵入できなかったりとまだまだ収束とはいえない状態であることが窺えました。





 どうにかこうにか京都駅に到着。もともと人の多い駅ですが、ここまで混乱しているのははじめて。嵯峨野線も運休なのでおとなしくタクシーに乗って帰宅。 …あ、雨漏り等はありませんでした。よかったよかった。

 今回の旅行による日本百名城達成度 75/100 山陰地区クリア
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