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2016沖縄旅行記 前へ
ばっくとぅとっぷ


今日の島尻日記 8月28日(日)


 沖縄旅行実質二日目。今日は初手で首里城に行ってから、中南部の戦跡を回りつつ本島最南部を目指します。






 というわけでまずは首里城。いかな中心部にある典型的観光地とはいえ、朝8時はちょっと早…… って人いすぎー! 正確には中華(大陸か台湾かは不明)観光客多すぎー!!




 中国語の喧騒の中、周りを観察。首里城は日本軍司令部などというものがあったこともあって沖縄戦で完全にぶっ壊された(戦艦主砲の艦砲射撃くらった城は本土には……いや、浜松城あたりはあってもおかしくないか)上に、戦後は長く琉球大学のキャンパスになっていたとのことで周辺の復元はあまり期待していなかったのですが、なかなかどうしていろいろ復元されています。石垣も思ったより見事。とはいえ、やっぱり城というよりは宮殿的な雰囲気。





 外壁の漆の塗り直しをしている廣福門。当たり前といえば当たり前ですが、工程の中に複数回番号を変えてサンドペーパーで磨く作業が入っているのが謎の親近感。



 琉球のグスクの例に漏れず、というかある意味グスクのトップである首里城にも信仰施設が城内に点在するわけで、これは廣福門と奉神門の間という中枢部に近いところにある首里森御嶽(すいむいうたき)。今帰仁城や中城城で見たものよりも塀や門などが復元されています。よく見ると塀の左側に奉神門をライトアップするためのライトが。神聖な区画とはいえあくまで塀の上だったらこういうのはセーフなんでしょうか。




 その、正殿のある御庭(うなー)への最後の門であるところの奉神門。毎朝8時半になるとこのように開門の儀式というかパフォーマンスというかがあるようです。
 ……しかし、それに合わせるためなのか、公園全体の開場が8時、廣福門での入場券発売が8時20分からと小刻みに時間が制御されるのは、ちょっとだけまだるっこしい気も……



 首里城正殿。実は首里城のイメージはこれと守礼門しかなかったというのが正直なところ。やはり、石垣だけじゃなくて建物が残っていると、中華文明の系統だなあという感を強く受けます。




 正殿内部、玉座。1階と2階にわかれています。奥に王専用の階段が見えますが、これ、RPGとかだと一端撃破したボスがこの階段を使って逃げるから追いかける(その先で再戦するか、真の黒幕がボスをぶっ殺すシーンを目撃する等に展開する)シチュエーションが容易に想像できるような。なお、あれだけいた中華観光客のみなさんは、正殿の写真を撮った後は潮が引いたように回れ右して帰っていくため、建物内は割と余裕をもって見学できました。まあ、国籍がどうとか関係なく、日程をきっちり詰め込んだツアーってそんなもんですよね…




 正殿の建物全体から受けた印象は「お寺っぽい」。これはもともと大陸由来のという根っこが同じだからでしょう。ただ、こういう庭だか縁側だかにはどこか日本っぽいちまちまさが感じられて、親近感が。




 首里城祭 国王・王妃募集のポスター。今時戦国武将クラスならあっちゃこっちゃで公募していたり、場合によっては緊急雇用対策としてハロワで募集された武将隊なんていうのもあったりしますが(というかむしろ発端の名古屋がそうだった:今は違うらしいけど)、国王クラスとなるとなんかインパクトが違います。



 さすが首里城、トイレの蛇口がシーサー。



 昨今の例にもれず首里城にもアニメ調キャラクターがいるようですが、これがなんと爽やか好青年系。なるほど、こうやって本土と差をつけてきたか。やるな、沖縄。



 そういえば沖縄サミットとかありましたねえ。で、確かかの二千円札もこれがきっかけの一つで作られたような。もはやコミケでネタの一つとして使われる(そして思いっきり滑る)ことがあるらしいくらいでしか使われる場面を見なくなった二千円札ですが、地元沖縄ではそこそこ流通しているらしいみたいなことを聞いていたのでちょっと期待していました。……が、結局見かけませんでしたねえ……もっと積極的に狙っていけばよかったか……(実は存在自体帰る直前まで忘れていたとかそんなことは知らない)



 正殿裏手、四周を石垣に囲まれたデッドスペース。なんか宗教的なアレなんでしょうか。単なる無意味なデッドスペースでもそう思えてしまう雰囲気が、グスクにはあります(笑)。




 このあたりの眺めが一番好きかも。



 久慶門から出て、さらに下ったところにひっそりとその口を開ける(閉鎖されているので正確には開けていない)、第32軍司令部壕。解説板はありますが壕までの道のりを示す案内板は特にありません。ご存知の通り、32軍は最終的にはここを放棄、さらなる地獄へと突き進んでいくことになります。



 首里城離脱前に、ようよう人も減ってきてたので改めて守礼門を。…しかし、有名な門ではありますが、内郭にあった他の門に比べると、正直、一番初めに出くわす門だという以上のことは、うん。昔、修復が進んでいなかった頃は首里城といえばこの門だけだったという時期があったようですが、その当時に来たらがっかり名所扱いされるのも、なあ……



 本当は三重城や御物城といった首里城の周辺施設も回りたかったところですが、時間の都合から一旦北上して、宜野湾市へ。輪切りになった地球みたいな展望台があるここは嘉数高台公園。




 …そう、沖縄戦でも屈指の激戦地、嘉数高地その場所。今でも弾痕の残る塀や陣地壕の跡が残されています。




 トーチカ。釧路や台湾高雄、または各地の要塞跡などで、結局実戦に使われなかった遺構は目にしてきましたが、実際に砲火を浴びてボロボロになったものを見るのははじめて。コンクリートの塊がここまで削られるのか……



 嘉数の戦いに参加した第62師団は京都の師団ということで、慰霊碑、京都の塔が。……京都の部隊ということは、何かが間違っていたらうちの爺さんも、すなわち私の存在自体が、となると他人事と思えなくなってくるところが…… 他にもインパールルートとレイテルートもありますが、京都の師団……




 展望台から見た普天間基地。土曜日なのでいないかなーと思っていましたが、数機のオスプレイの姿が視認できます。この高台、ある意味現在進行形で最前線なんですよね……マスコミ関係や政治家の人たちもここから普天間基地を視察することがあるとか。
 ……しかし、こうしてみると、やっぱりとんでもない立地だよなあ……使う方もそりゃ移転したがるだろうし、とっとと移転した方がいいと思うのですが、まあ、それ以上深く突っ込んだことをいえるわけでもないか。

 今回は車両機動だったので、例のたまに話題になるハッピーサイエンスによるとされる米軍歓迎的横断幕を、基地周辺数か所で確認しつつ撮り逃したのはある意味で少々残念。たまたまその日の朝にカーラジオつけたらあそこ提供のゆるふわ宗教番組が流れてきて噴きだしたというのも含めて。




 車窓から撮れた数少ない写真は、かの有名かつしょーもない地名に関する標識とか、沖縄ならではの不動産屋の看板とか程度ですね。あと、なんかやたらと小中高の同窓会の告知横断幕があっちこっちにあったように思いました。地縁の濃さ、というやつでしょうか。……正直、そういうのが希薄な地域に生まれてよかったなーという率直な感想が……

 次の目的地は豊見城の旧海軍司令部壕。今は海軍壕公園として整備されて、って陣地があった七四高地まるごと、なんか大掛かりな遊具まであったりしてすごく立派な公園化されてる……首里城の32軍司令部壕があれだけひっそりとしていたのとえらい違いのような……(実は錨のマークの入ったオリジナルグッズも売ってたりする




 丘の頂上、資料館の前に立つ海軍戦没者慰霊之塔。横に立っているマスト状の構造物もなにかゆかりの船から持ってきたのかと思いましたが、特に来歴の説明は無し。



 この錨も、ネットで調べると一応海自の横須賀地方総監から送られたものではあるらしいと出てきますが詳細は不明。昭和35年までは駆逐艦「卯月」の錨があったけれども何者かに持ち去られたという話が……

 それはさておき、奥の参加部隊名の碑には、いわゆる沖縄戦を戦った海軍部隊と「大和」以下の「あの艦隊」だけでなく、44年の十・十空襲やそれ以前に沖縄海域で沈められた艦艇も記録されているようですね。「迅鯨」や「杵埼」、「友鶴」、「真鶴」、「沼風」なんていう名前が。なにより見慣れない名前は駆潜艇「海威」でしょうか。桃型二等駆逐艦「樫」が満州国に譲渡されて、太平洋戦争が始まってから再び日本に出戻り、那覇にて十・十空襲に遭い沈没。第一次大戦の時には地中海まで出向いてるとか、相当数奇な運命を辿った艦です。





 壕入り口の資料館には、太田少将の遺品や少将旗、発掘された25ミリ機銃や手製の槍が。……槍が……






 壕内。主要部は漆喰やコンクリートなどでしっかり補強してあります。この辺は本土でみたことがある松代大本営などの地下施設と比べるとむしろ入念に思えますが、むしろ最前線だからこそか。 ……そして、そんな幕僚室の漆喰に幕僚が自決した時の手榴弾の破片の跡が。





 司令官室。




 確か発電機室と、誰が置いたのかパイロットのフィギュア、そしてその前に供えられる小銭。



 完全に終末的な出撃風景ですが、沖縄戦全体で見るとまだこれから先があってしまうというのがなんとも……



 海軍壕公園の丘、全体が公園化されてると書きましたが、実は結構お大きいお墓が二つほど山肌にありました。元からここに土地を持ってたとかそんな感じでしょうか。



 最南端の糸満に向かう前に昼食。沖縄名物ルートビア、おかわり自由! この湿布臭、たまんねえ!(結構好き)



 昼食をとったA&Wの前のスーパーでネタ探し。沖縄といえば泡盛、ということでいわゆる大五郎ペットボトル泡盛からワンカップ泡盛まで素晴らしいラインナップでしたが、パウチタイプなんてものもあるんですね(それも原液、水割り等バリエーションもありで)。なんとなく、大五郎ペットよりもこっちのほうが一番ダメな気がするのはなんでだろう(笑)。



 昼食をとったあとは一路南進、車で行ける本島最南端の喜屋武岬……の前に、その隣の岬にある具志川城へ。北の辺戸岬への道とは打って変わっての集落やさとうきび畑の中を通る未舗装の細い道を抜けた先に、沖縄本島最南端の城があります。日本最南端はたぶん、与那国島とか石垣島あたりを探せばある……のかな? なお、私自身が行ったことのある最南端の城は、日本に限らなければ台南の安平古堡かゼーランジャ城だったりします。






 三方を断崖に囲まれた岬の先端部分を閉塞するように築かれた立地。さほど大きくはなく、郭も二つしかないですが、思っていたより見事な石垣が残っていて驚き。発掘調査の結果からすると使用されたのは12世紀後半から15世紀中頃、久米島の具志川城主が本島に逃れてきて、同名の具志川城をここに築いたという伝承があるとか。



 二の郭にある火吹き穴(ヒーフチミー)。海につながっていて船から荷物を上げたりするのに使ったとのことですが、ご覧のように草が茂っていて海は見えず。




 二枚目がたぶん喜屋武岬。しかし、個人的にはこの最果ての岬の城という感じは好きですが、立地的には袋小路感満載であまり居城したくはない気もします(笑)。まあ、陸というよりは海上を見据えた城で、船に乗ってしまえばどこへなりともいけるタイプだとは思うのですが。瀬戸内とか伊豆とか志摩と違って、あまりにも周りにずっと海が広がりすぎてどうにもないよなーと思うのは、完全に内陸の民の発想だなあと思いつつ。




 そのまま喜屋武岬に移動しましょう。与論島を望め、本土復帰闘争の拠点となっていた辺戸岬と違い、喜屋武岬は人影もそんなになく施設もトイレと灯台、この岬のあたりに立てこもっていた第62師団慰霊の平和の塔がある程度。そういえば、この岬周辺に立てこもったということは具志川城にも当然立てこもっていたはずで、かつその時期になると上にも書いたとおり脱出路たるべき海上には1500隻とかいうちょっとわけのわからんレベルの米軍艦艇がいてがんがん艦砲射撃を仕掛けているはずなのですが、その割には破壊の跡が見えなかったよなあ……とも。案内板などには特に注記してなかったのですが頑張って修復したのか、それとも城本体に手がかかる前に部隊が壊滅、もしくは自決してしまったのか……



 西に見えるのが本島真の最南端、荒崎。なんか車で行ける道はないとのことで、この喜屋武岬が最南端と思われがちなようです。……しかし、北海道大作戦といい私とMURAJIさんが旅行すると、「城に寄りながらとりあえず先っぽまで行ってみる」というのが基本方針になってる気がするなあ、最近(笑)。



 ……命の大切さとか平和の尊さとかは今日、現在進行中で戦跡を回りながら噛み締めていますが、このタイルはたぶん戦争とかそういうのとは別の意味で設置されたやつですね……



 ……さて、南部の戦跡ではおそらくもっとも有名な場所に来てしまいました。ひめゆりの塔。まあ……説明はいらないでしょう。ほぼすべての隊員と引率教諭の最期の状況を可能な限り、淡々と記録してあるパネルのコーナーが一番きました。正直、周りの土産物屋等の観光地化度には結構なものがあったのでどうかとも思いましたが、その程度のものは容易に吹き飛ばすだけの重さがあります、やはり。

 しかし、このあたりを移動していて思ったのですが、一部のちょっとした高地を除けば守りやすそうな地形皆無の平地(そのくせ端は崖である)で、それはこんなところに敗軍と民間人がなだれこんで蓋をされたら大惨事になってしまうよなあという嫌な納得があってしまいます。……まあ、例によってじゃあどうすればよかった、首里で決戦してればとか地形が正反対の山原ならとか、そもそも戦争なんてとか言い出してもどうしようもない話なんで、ただただ天を仰ぐほかないのですが。

 大体予想通りだとは思いますが、最後に訪れたのは沖縄戦の組織的抵抗終焉の地、摩文仁の丘のある平和祈念公園。ここも思っていたより相当広い公園になっていました。まず敷地内の沖縄県平和祈念資料館に寄ったのですが、ここの資料室でうっかり市史だの村史だの軍法会議の判例集だの戦闘記録だのといった資料を悪趣味なミリオタ視点で堪能してしまい、思ったより時間を潰す羽目に。仕方がないので駆け足で摩文仁の丘に登ります。



 摩文仁の丘は霊域となっており、国立沖縄戦没者墓苑をはじめ、このような各都道府県、樺太、海外等、各種の慰霊碑が立ち並んでいます。あえて近江の塔を例にしたのは本国京都の次にゆかりがあるから(京都は府としてではなく第62師団の塔がある)。(地図



 それぞれの塔は思い思いの形で鎮魂と平和への祈りを表していると思いますが、不謹慎を承知でいうと、青森県のものはほかと比べてどこか異彩を放っている感が。……とはいえ、はるか北の青森からこんな南の果てでいよいよとなれば、最後に故郷の果実の赤い色を思い浮かべた人もいた、かもしれません。





 本日最後の目的地、第32軍司令部壕跡。摩文仁の丘頂上付近、黎明の塔から海のほうに伸びる階段の途中にあります。その上には当地で自決した牛島司令官、長参謀長の墓跡。首里城の壕跡と同じく、この壕も公園内に具体的な案内板はなし(上にリンクした公式の地図を見てもやっぱりない)。壕そのものを中心として公園化して、でっかい看板が立ってオリジナルグッズまで売ってる海軍司令部壕と随分差があるように思えます……が、本格的な地獄に突入する前に(その時点でも十分地獄だったと思いますが)退場した上に「あの電文」で多少なりとも民を慮る姿勢を見せた海軍と、その地獄を作り出す主体になってしまった上に最後はほっぽり出す形になってしまった陸軍とではどうしても扱いが違ってしまうのか、それはどうしようもないことなのか……などと思うと同時に、若干、(元)海軍勢のアピール力よ、ともちょっと思うところはあったりしつつ。



 今回の作戦はこれで終了、レンタカーを返したあとは沖縄唯一の鉄道、ゆいレールで中心部に帰還。わかってはいたけどさすがにSuicaは使えないんですね(笑)。うっかり捨ててしまいましたが、切符はQRコード読み取り式でなるほど、最新設備。



 本旅行最後の夕食は1ポンドのT-BONEステーキ。この日は昼夜とも沖縄っぽい……というかアメリカっぽいものばかり食ってました(笑)。

今日の帰朝日記 8月29日(月)


 最終日、朝7時台の飛行機で本土に帰るため、5時半ごろには既にホテルを出て空港へ。ちょっと見たことのない謎の動きをしていた台風10号の影を警戒しながらの旅行でしたが、結局好転に恵まれ、飛行機の運行にも支障なかったのは幸運でした。




 帰りは窓側の席を取れたので、離陸しながら那覇基地のF-15(たぶん)やP-3Cを撮りつつ、



 さらば沖縄。そういえば今回、飛ぶのも降りるのも軍民共用空港なんですね。



 ということで、茨城空港に降りるときには今度は百里のF-4まで見ることができました。




 ただいま茨城。ただいま大洗。ああ、実家のような安心感。今から楽しみだぜ最終章。




 茨城空港からは東京駅まで直通バスで500円。ターミナルビル横の広場に展示してあるファントムを眺めつつバスを待ち、あとは寝てれば一直線で、今回の旅行は終了です。今回は実質2泊でとりあえず百名城の3城を撃破して帰ってきましたが、他にも勝連城、座喜味城あたりも行ってみたいですし、本島以外の島々にも行ってみたいものです。とりあえず百名城めぐりはいよいよ9割達成、主戦場は九州を残すのみ。とか言いつつどっちかというと金と時間が降ってきたら韓国に出動して倭城見に行きたいなあとか思い始めてたりもするわけですが(笑)。

今回の旅行による日本百名城達成度 91/100
ばっくとぅとっぷ

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