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ばっくとぅとっぷ

今日の朝倉日記 11月30日(土)


 今月の城めぐり。いよいよ日帰り攻略目標の選択肢が狭まる中で今回選んだのは戦国に燦然とその名を輝かせる自宅警備員、朝倉義景が厳重に警備していたことで知られる朝倉氏の本拠地。越前一乗谷。季節的に今日行かないと春までいけませんからねえ、北陸は。七尾城の悲劇を繰り返すわけにはいかないというか、あれ一歩間違えたら遭難でしたし。



 福井駅までサンダーバード、そこから越美北線で6駅ほどの一乗谷駅が最寄り。ただし、駅から一乗谷の中心部までは2キロほど離れています。駅前の一乗谷朝倉氏遺跡資料館から無料周遊バスが出ているので、それを使うのがいいでしょう。

 なお、この路線は見てわかるとおり「超」をつけていいくらいのローカル線。9年前には豪雨災害で大損害を受け、存続すら危ぶまれたような路線です。ダイヤも一時間どころか一日に10本、帰りの列車は12時台の次は15時半といった有様なので、スケジュール構築は計画的に。
 …とはいっても実は列車が来ない時間帯にもしっかりバスがあったりするので別にとかなるんですけどね(笑)。さておき、やっぱりはじめに厄介なところをつぶすべきということで、さっそく詰の城、一乗谷山城に登ってしまいましょう。ネット上の情報では登山口は三つあると書かれているものもありますが、そのうちの一つは数年前の台風被害により通行止めになっているので現在は二つ。そのうちの一乗谷史跡公園センターの裏から登る馬出ルートを選択。センターには城跡までの地図と縄張り図があるので忘れず確保。



 登り始めてすぐのところに広がる削平地。馬出ルートというからには馬出があったはずなわけで、それなのかなとも思いましたが特に説明などはなし。単なる畑の跡地の可能性も。





 そんな平坦地のど真ん中にぽつねんと存在する謎の石垣ってか石積み。遺構ではたぶんないと思いますが、一体何の意味があるんでしょうこれ。区画整理とか獣よけにしては長さが中途半端だし、段差があるわけでもないし…



 しばらく進むと砂防ダムがあり、そのすぐ上あたりに出城、小見牧城の標識。後で調べたところ何段かの曲輪があるとのことでしたが、道の付近ではどうも確認できず。もしかしたら標識ジャストの場所じゃなくてちょっと道から外れて登ってみないといけなかったりするのかもしれません。



 道は全体的に結構急峻で岩がち。加えて晩秋の分厚く降り積もった落ち葉と折悪しく降る小雨のお陰で足場は最悪。山城の防御施設としては十分すぎるほどの威力です。 …手加減してください(笑)。



 途中見かけた磨崖仏。



 このお不動さんとその足元に湧く清水が見えたら、城域まですぐそこ。 …ですが、実は上りは気づかずスルーしちゃったので下るときに撮った写真。





 城域に入ってまず到達するのが千畳敷。このあたりから足元、うっすらと雪が残っています。さっき斜面落ち葉雨のコンボで足場最悪と言いましたが、更にその上にイヤすぎる追加効果が(笑)。





 千畳敷と西の観音屋敷を区画する土塁。





 観音屋敷からさらに西の宿直跡へと通じる道は枡形になっていてちょっと技巧的。こういう小技が効いた構造、好きです。



 宿直跡から一乗谷を眺めるも、半分以上靄に隠れて何が何やら。



 宿直跡の上には月見櫓跡の曲輪があるものの、突入口はわからず。斜面直登で行けなくはない程度の高さですが、濡れ落ち葉で足場が悪すぎるのと軍手を忘れたのとでこれはちょっと無理かなあと。

 千畳敷に戻って山頂方面へ。この城のおおまかな構造は北西から南東へと続く細長い尾根のうち、入り口に当たる平地に千畳敷があり、その先にある三つのピークの「低くて前にある方から」一の丸、二の丸、そして最高所が三の丸になっています。普通の城なら最高所が本丸とか一の丸とか主郭になるところ、転倒しているのがちょっと謎。



 一の丸下には横堀が。



 一の丸。案内図のルートは各曲輪の下をかすめて通るようになっており、曲輪への道はあるんだかないんだか。落ち葉さえなければもう少し楽に登れるのかもしれませんが… なんとか登ってみたもののここまで来る物好きがいることは想定されていないのか、藪とはいかないまでも灌木のび放題で見るほどのこともなく。 …というかこれどうやって降りよう。



 本丸と二の丸の間には土橋がかかっているように見えますが、突破はちょっと骨そうだったのでおとなしく一旦降りて正規ルートから回りこみましょう。 …ところで、これ、どうやって降りよう…





 一の丸と二の丸間などの堀切。さすがに北国の雄・朝倉氏の詰の城に恥じない規模。





 竪堀も相当のものですが、大部分落ち葉や木立に埋もれ阻まれて確認&撮影できず…



 二の丸も特に見どころはなかったのは省略して、三の丸の最高所。



 三の丸周囲の畝状竪堀… だと思われる地面の凹凸。画面右、雪が積もっている溝がたぶんそうだと思います。実は一乗谷山城の特徴は全山に張り巡らされた140条(うぃきぺ調べ)もの畝状竪堀群ですが、一番確認しやすいのはこの三の丸下でしょうか。この城、特に三の丸から一の丸にかけての縄張りはシンプルというか正直さほど技巧的ではないので、これだけの畝状竪堀や竪堀が掘られまくっているところにはある種のアンバランスさがあります。それも当然で、これらの竪堀群や比較的技巧が凝らされた千畳敷は元亀年間、朝倉義景の代になってから信長の侵攻に備えて増設されたものだとか。

 …まあ、もともとの城の規模が中世の最後の避難所以上とは言いがたいですし、結局のところせっかく強化したこの城もまともに使われることなく放棄され、谷全体が灰燼に帰してしまうわけですが。 …朝倉氏の滅亡過程、あまりに唐突すぎてなにがなんだかよくわかんないんだよなあ…「小谷城に浅井の援軍として出陣したと思ったらいつのまにか本国で従兄弟に裏切られて切腹していた」とか、ポルナレフ状態といわずしてなんといえばいいんだか。



 下山してすぐの民家の軒先に吊るしてあった干し柿。なんかいいですね、こういうの。





 一旦谷の北側出入り口にある下木戸方面へ向かってから、中心部のある南側へ移動しましょう。この平地は朝倉景鏡館跡。例の裏切った従兄弟です。こういう致命的すぎる裏切り者は裏切った先でも程なく粛清されるのがセオリーなイメージもありますが、実は他の朝倉一族・旧臣共々、信長自身は一度は許して所領安堵してるんですよね。生き延びた連中も最終的にほぼ全滅してしまうので信長が最初から殺る気満々だったようなイメージを持ってしまいますが、あれは富田長繁とかいう狂犬が史上まれに見るレベルの壮絶なヒャッハーをやらかした挙句、加賀の一向一揆まで介入してきた果てのことですし。朝倉氏の滅亡過程といい、短期間でこう何度もわけのわからん事態を引き起こすような国、信長でなくても「リセット」したくなる気持ちはわからなくもありません。いやだからって根切りはやりすぎのような気もするけどやっぱり。





 そうこうするうち下木戸に到着。





 谷全体を閉塞する巨大な土塁もですが、近世城郭でもなかなかない大きさの石で組まれた石垣は威圧感十分。これだけの規模の土塁を作って谷全体を城と見立てられるだけの力があるなら、なるほど山上の詰の城なんてよほど切羽詰まらない限り必死に整備する必要がないと思うのも頷けます。 …結果的にはよほど切羽詰まっちゃったとしても。



 下木戸にて遺跡地区の北限に達したのでUターンしてかつての町並み跡を歩く。まず現れるのは寺院や武家屋敷跡の他、職人宅跡などの町家が並んでいた平面復元地区。



 あちこちに点在している四角い石組みは井戸の跡。どれだけあるねんというくらい、場合によっては1m間隔くらいの高密度で存在していますが、一家に一台水道の蛇口があるようなものと思えば納得できるのかもしれません。なお、パンフレットを見ると便所もほぼ一家に一つは完備されていたようです。



 武家屋敷跡や寺院跡はさすがに広大な敷地。町家群とすぐ隣接した立地にあるというのは少し面白いようにも思ったり。ここらへんはいくら大きいとはいえやっぱり谷の中だから完全に分離させるほどの余裕まではないとか、そういう理由だったりするのでしょうか。



 今年は紅葉を見に行く余裕がありませんでしたが、これにてどうにかノルマ達成。



 一乗谷の中枢、朝倉氏館跡。この唐門は後に朝倉義景の菩提を弔うために建てられた寺のもので、江戸中期の再建。



 堀、土塁といかにも古風な武士の館っぽい佇まい… ですが、



 実は単なる方形館ではなく、山麓に数段にわたって曲輪や堀切を配置したダイナミックな構造になっています。たかが館だと思ってはじめはすこしなめていたのですが、この義景館跡と中の御殿を仕切る堀切などをみて考えを改めました。



 義景館の内側から。こんな起伏に富んだ「館」、他にはなかなかない気がします。



 内側から見た土塁の隅。櫓台になっていたのでしょうか。



 館跡にある朝倉義景の墓。



 義景館跡全景。黒いところが建物跡。すなわちかつての越前の中枢のさらに中枢。御殿や庭園などの他、日本最古の花壇の存在も確認されているとか。



 館跡から3分ほど山道を登ったところにあるえーりん塚… もとい英林塚。応仁の乱で頭角を現し、朝倉氏繁栄の基礎を築いた朝倉孝景の墓。なお、孝景のひ孫(義景の父)も孝景。所領を横領されまくった寺社や公家からは天下一の極悪人呼ばわりされているあたりがとてもCoolだと思います。そこにシビれる憧れる。







 英林塚から諏訪館跡、中の御殿跡、湯殿跡などの庭園を回る。諏訪館跡は義景の愛妾小少将の、中の御殿跡は義景母の館跡と伝えられます。しかし、これらの館跡は当主たる義景の館よりも一段高いところに位置してるんですよね。普通、偉い人のほうが高いところに住みたがるというか、自分より上から見下ろされるのを嫌うものだと思うのですが。山城も三の丸のほうが一の丸より高い構造になっていましたが、朝倉氏の中には世間とは逆に「低いところにいるほうが偉い」みたいな感覚があったりしたのでしょうか。高いところで見張りをするのは下っ端の仕事だ、的な。



 義景館跡の土塁を上から。下木戸といい、こういうシンプルながら有無を言わせぬ重厚感があるでっかい土塁は王者の風格が漂っていていいですね。 …一瞬山上の城の構造との落差とかについて考えたりもしましたが、まあそれはそれ、これはこれか。山城の方も堀切自体の規模はでかかったし。



 そろそろバスの時間が迫ってきたのでちょっと駆け足になりつつ、最後に復元町並みへ。なお、ここ一乗谷はあの携帯電話会社の白いお父さんの出身地という設定になっています。というわけでCMが撮影されたこともあったようで。







 なかなかいい雰囲気ではあるものの、路面がきっちり舗装されすぎているのは少し残念かもしれません。アスファルトよりはよほどマシですし、砂利や土がむき出しになってるとそれはそれで汚らしいので、妥協点はこのあたりになるのかもしれませんが。



 最後に下城戸に対応する南の玄関口、上木戸を見てバスの時間まで待機することにしましょう。川を渡って回り込めば登れるみたいでしたが、時間もなかったのでとりあえず眺めるだけ。補修工事か何かをしているっぽいですね。



 おまけ。復原町並売店の軒先にて。ある程度の知名度を持った戦国武将の本拠地ではほぼお約束といえる大河ドラマ誘致署名運動、どうやらこの一乗谷でも展開中のようです。 …ってお前、なんちゅう身の程知らげふんげふん。

 室町〜戦国前期大河よもう一度、という立場からすると孝景1号主役で応仁の乱とか見てみたいのは確かですが、そもそも応仁の乱をまともなストーリーとしてわかりやすく描写することは不可能だとそれこそ歴史が証明しちゃってますしね(笑)。
 …いや、いっそ3代目から義景まで、当主は一乗谷からほとんど出ずにひたすら戦国ホームドラマをやってしまうというのも最近の傾向からすればアリなのか?どうせ戦う敵も六角だの一向一揆だのの世間的にはどうでもいい連中ばっかりだし。終盤に襲い来る信長がどうしようもないけれど… 待てよ、ここは発想の転換で朝倉氏の当主以外、滅亡までにとっとと死んじゃう人間を使えば…

 …というわけで私は「一乗谷にひきこもる義景くんを『仕方ないなあ、義景くんは』とか言いながらひみつ兵法で助けてくれる、先祖から送られてきた室町型老人」が主役の朝倉氏大河ドラマ、「宗滴えもん」の実現を応援しています。 …うん、やっぱりこれは、 …ダメだ…w

 今回の旅行による日本百名城達成度 75/100

 …なんか数え直したら一つ多く計上してたことが発覚したのでここで修正。残り北海道・東北5、関東1、甲信越4、北陸・東海3、近畿0、中国1、四国1、九州・沖縄10。これで25城、のはず。

今日の腰痛日記 11月5日(火)


 なんかいつもの週明けに増して腰とか肩とか痛いと思ったものの、考えるまでもなく3連休ずっと机の前で艦これやってたからですね。そらそうなるわ。

今日のE5日記 11月4日(月)


 今日は一旦様子を見て資源を回復させようと思ったものの、朝9時くらいにやっぱとっとと勝負を決めたくなって猫が出ないうちにE5に突進。おおう、ボスが硬い…

 というより、低速艦or高速艦で統一して直進ルートを取ると、羅針盤には煩わされないものの道中先頭で弾薬を損耗しすぎてボスにろくなダメージが通らなくなりますね。途中から金剛型2隻、重巡、ハイパーズで北ルートを取りましたが、ボスの撃破に関してはそこから圧倒的に安定しました。もっとも、このルートもフラ戦2〜3による昼戦付きマスと羅針盤という関門があるので道中が安定したなんて訳はないのですが。

 最終結果は所要時間6時間、油9000、弾薬13000、鉄鋼13000、バケツ70個程度の消耗。ダメコンは結局1個。潜水艦での気分転換含め総出撃25回、うち道中事故7回、ボス前羅針盤2回。全艦一々光らせるために1-1を回らせていたのが時間を食った要因という感はあります。ただ、夜戦だと昼以上にコンディションの影響が大きそうなので余裕があればするべきか、とも。通常状態との比較はしてないのでなんとも言えませんが…

 しかし、夜戦の戦いが増え、「重巡は主砲+副砲か主砲+主砲の連撃構成が基本」というのが共通認識になってきてますね。結果、魚雷が重巡からどんどん降ろされていくわけですが、なんか重巡から魚雷をおろした米軍の正しさを追認してるみたいにも思えて興味深いような(笑)。



 というわけで武蔵登場。褐色眼鏡姉御系ツインテールさらし。 …武蔵といい長門といい、大和があまりにも大正義すぎて正統派美少女枠をかっさらっていった分、わけわからん属性をてんこ盛りするしか生きる道がない、みたいに思えてもののあはれを感じます(笑)。とりあえず長門型同様へそがいいですね、へそが。

 …なお、レベル99に達して名実ともに我が艦隊最強艦であるその大和ですが、今回のイベントでの出番はE4のとどめを刺させるべく最後に連れて出撃したものの目の前で比叡が飛行場を完全破壊して皆が沸いている中ひっそりと撃ち漏らしの戦艦を沈めたのと、E5のラストに今度こそしっかり妹をお迎えしようとついてきたものの低速高速混在の罠にかかってうっかり部隊をウルフパックのど真ん中に導いた(かろうじて無傷で切り抜けた)上昼戦最後のボスの雷撃で大破、行動不能状態のまま北上様がワンパンでボスをふっ飛ばすのを呆然と眺めていたのと、計2回だけでした。 …ま、まあ、今回のイベントは金剛型と重巡のためにあるようなもんだからなあ… そのうち君がいないと話にならないイベントも出てくるさ… …ほ、ほら、本国南部諸島奪回水上突入イベントとか…

 …あ、余計に凹んだ。ご、ごめん。悪気はなかったんだ、いやマジで。

今日のE4日記 11月3日(日)


 今日は一旦様子を見て先行情報を収集しようと思ったものの、朝4時くらいに目が覚めてしまったので猫が出ないうちにE4に突進。E3とはケタ違いの難易度。夜戦は怖いわ飛行場姫は潰せんわ…

 結局4時間、油8000、鉄7000、弾薬6000、バケツ50〜60、総試行回数19回くらいでクリア完了。レベル78〜85の金剛型と68〜73の妙高型、70〜66の島風雪風夕立改二時雨改二で2個艦隊作ってローテーションできたのはよかった、かも。最後は比叡が前世の因縁を吹き飛ばすかのように決めてくれました。



 というわけではっちゃん着任。イクが強烈すぎて若干霞みますが、この子もこう、なかなか… …潜水艦、酸素不足してるのかなあ…

今日のE3日記 11月2日(土)


 昨日に続いてE3攻略。これもまあ余裕余裕。



 ボス戦一発目で阿賀野さんお迎えできたので余は満足じゃ。あ、省略してるけど能代さんもかわいい。

今日の開戦日記 11月1日(金)


 艦これ秋イベント、開戦。そして襲いかかる猫。猫。猫。初日とはいえもはやゲームとして成立しているかどうかすら怪しいような接続状況に物申したくなるところは大いにあるものの、なんとか初日にE1、E2をクリア。まあここまでは余裕ですね。E2も恐怖の夜戦マップで警戒していましたが、ある程度のレベルに達した駆逐艦隊(うちのは65〜70)だと時にはノーダメで帰ってきたりしてなかなかの爽快感。ゲージを削るのは夜戦マップゆえの攻撃機会の少なさと猫のせいでちょっとは手こずりましたが、まあ、回復もないし。

 しかし、E1で迎えた伊19… 潜水艦の常とはいえ、その、なんつうか緩いなあ… 昔アメリカでノースカロライナを見た時に「このあたりに日本の潜水艦が魚雷を当てた」という案内板があって胸を躍らせたものですが、その殊勲艦がまさかこんなアホエロスク水になるとは…
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