D.B.E
三二型(さんにがた)
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7月4日(金) 本日の山ニュース 閉山ちう このコーナーは山を愛する高校時代の恩讐の師、↑杉師への親愛と敬意と皮肉をこめて適時開いているコーナーです。
●遊撃隊記事 この項を飛ばす |
今日の日記日記 7月4日(金) とりあえず旅行記だけ書いたので更新。正規更新も、近いうちに、きっと。 今日の日帰日記 6月29日(日) 友人の結婚式のために東京へ、そしてその日のうちに撤退。新幹線のC席でありながら電源を確保するといった荒業により延々艦これとかやってたから別に問題はないのですが(笑)。とはいえさすがに往復で5時間ほど新幹線というのも疲れました。 今日の稽古日記 6月28日(土) 大阪で合気道なお稽古。今日使った体育館は畳が硬くて辛い… 今回の旅行日記 6月21日(土)〜6月25日(水) 2014函館・松前・八戸旅行記にて。 今日の消化日記 6月19日(木) 週末から来週前半にかけて大遠征を発動するので、2箇所ほど溜まっていた城日記を更新。いかんなあ、こう後手に回ると。 今日の961日記 6月14日(土) 梅雨の晴れ間の城巡り。今回は近場… というにはちょっと山奥、福知山と篠山の間にある丹波黒井城を目指します。 一応駅員はいるけどみどりの窓口はなくて特急の指定席は取れない(無論ICOCAは範囲外)というなかなか微妙な黒井駅から黒井小学校を目指して移動、小学校の裏山が黒井城。城主は子安声… ではなく、信長の野望の近畿プレイでは序盤の武闘派武将としてお世話になる事が多い「丹波の赤鬼」赤井直正。 縄張り図。 城跡の碑の奥に見える山道を登ること30分、赤門のある曲輪、石踏の段に到着。荒れ果てた寺の山門のように見えますが、元は城下の薬師如来堂の門だったようです。なぜわざわざ山上に上げたのかは不明(もともと城門だった… のかなあ… 調べても確証が持てないからあれだけど…)ですが、5年ほど前には町民が力を合わせて資材を山に上げ、修復作業を行ったとか。 …その際、高校のワンダーフォーゲル部が参加してるのはわかるとして、野球部まで駆りだされているあたりがなんというか(笑)。足腰のトレーニングとしてはよさそうですが。 赤門からの眺め。そろそろ野外作戦にはつらい季節になりつつありますが、いい感じに晴れてくれました。 石踏の段全景。右奥にあるのは赤井氏の招魂碑。 石踏の段から更に登り、東曲輪・三の丸〜本丸が城の中枢部。規模はそこそこですが良好に残っている石垣や枡形虎口と思われる痕跡などが残ります。確実なことは例によって言えないのですが明智時代の改修、かなあ。 石垣が最も大規模に残っているのは本丸〜二の丸下。少なくとも現在確認できる範囲だと正面に当たる南側に重点的に築かれているようです。宇佐山城とかでも似たように感じましたが、やっぱりより下から見えやすいところに力を注いで威厳をアピールしているということでしょうか。 二の丸から本丸方面を眺める。やはり雑木が伐採されて見晴らしが確保されている山城は気持ちがいいですね。 …若干、草原に小さな花が点在している感じになってるせいか蜂の天国のようになっていて、かなりの数の蜂がぶんぶんぶんぶん飛び交ってたのはちょっと怖かったですが。よく見たらたぶんマルハナバチだったので無害… とは頭でわかっていても、ほら、ねえ。 本丸と二の丸の間の堀切。今は土橋がかかっていますが本来(どの時点のことかは不明)はなく、南側から迂回して本丸に入っていたとのこと。 本丸跡。保月城は黒井城の別名。 石垣で固められたエリアはこれで終わりですが、本丸西から北西に尾根を下ってまた登ったピークには西の丸が。距離的には本丸とさほど離れていませんが、けっこう高低差がある&岩肌も含めたかなり急で細い道を登り降りすることになるので、体感的には一城別郭といってもいいレベルに感じました。 西の丸は改修を受けていないようですが、数段にわかれた曲輪の面積はかなり大きく、土塁なども確認できます。改修を受けて「詰の城」の役割に特化するまでのこの城、やはり八上城、八木城と並ぶ丹波三大山城の一つだけあってかなり広大な城域を誇っていたのでしょう。さらに三方に広がる尾根の先には前哨陣地たる砦もあったようですし。 いつもながらわかりづらいですが、堀切と土橋… というか、これはもはや石橋というか、石の刃の上というか… さすがに風化によるもの、だよな? 本丸に戻って下山。石踏の段からは往路とは違う道を選んでみましたが、実はこっちの道こそが道中に点在する曲輪を見て回れたり道標が整備されているメインルートのようでした。ということでこれは太鼓の段という曲輪。奥には「東出丸へ」という案内板があったのですが道が途中で消滅していたので突破断念。行けるところまで入ってみたのですが、さすがにかなりの急斜面で道幅が20センチ以下になってしまうと… 名前のわからないそれっぽい平坦地や三段曲輪を経由して無事下山。登山口にある城跡の碑からみて右手のコンクリート製階段に出てきました。くっそ、正面にいかにもな山道をみせておいてこれとは、とんだトラップだ…(笑) 登山口の横にある興禅寺。もとは黒井城の山麓居館だったとのこと。なるほど、この水堀と石垣に漆喰塀はそれにふさわしい威容です。 楼門を正面から。左の石碑は「春日局出生地」。ガチホモ将軍をバイにまで矯正し、徳川幕府の安泰に多大なる貢献をしたという偉大な功績を保つ女傑、実はここで生まれたらしいです。 たとえば寺宝を盗みに忍び込んでずらかる際に、慌ててここから飛び出そうとしたら面白いことになってしまいそうな扉。板なりなんなり渡して橋を仮設してしまえばちゃんと本来の役目は果たせるのでトマソンといえるほどのものではないですが、それでもぱっと見のインパクトがあるのでこういう構造物は大好きです。規模は違いますが二条城にもありますよね。 この時点で時刻は1時半くらいでまだまだ早くはあるのですが、近隣にちょっと足を伸ばせるレベルの目標もなく、また京都まで3時間弱かかってしまうので早々に退却を決断。隣県隣国ではあるのですが、やはり丹波は険しいです。こりゃ光秀も苦戦するよなあといつもながらに思いつつ、福知山で特急きのさきに乗り換えて帰宅するのでした。 今日の八王子日記 4月28日(月) コミ1参戦の前日乗り込みで東へ。もちろんこの機に城巡りしないはずはなく、関東地方の百名城で唯一残していた八王子城に向かいます。 新横浜で新幹線から乗り換え、高尾駅からバス。さらにバス停から15分ばかり歩いたところで口ひげがやたらキュートなうじてるくんと有名戦国大名がいた地域のお約束がお出迎え。後北条五代、大河としてぜひ見てみたくはあるんですよね。あの時代としてはちょっと類例が見当たらないレベルで一族の結束が堅いのもホームドラマパートを作るのにうってつけですし。とはいえどうしても結末がなあ… 八王子城は北条氏康の三男氏照の居城にして、関東では珍しい石垣の山城として有名(…とはいうものの、最近は探せばけっこうあちこちにあったような気もしてくる)ですが、基本的には本丸を中心とした山頂の曲輪群と山麓の御主殿曲輪などとに別れた、築城年代を考えると古典的すぎるともいえる構造をしています。もっとも、ミクロな曲輪の配置などは射撃戦に対応して進化したものであるらしく、そもそも近隣の支城や砦との連携まで考えずに中核部単体だけを見ても城の防御力なんていうものは測れないわけではありますが。 さておき、石垣が復元されているのは御主殿曲輪のあたり。この曳橋は「当時の道筋を再現するために現在の建築技術で当時の雰囲気を考えて架けられた」、復元というよりは模擬に近いもの。とはいえなかなか見事な迫力であり、今のこの城のシンボル的存在になっています。 …ただし、この橋は現在老朽化のため通行禁止。復元した建物の修復に手が回っていないようです。 …確かに予算に限りもあるだろうし、石垣の発掘整備やらに比べれば後回しになっても仕方はないのだろうけど… う、ううん… 本来は橋から入れるはずの復元虎口。実にいいクランク。ここらへんはやっぱり築城年代が新しいだけのことはあります。 御主殿曲輪内部。木製の舞台みたいなのはかつての建物跡を示すもの。 …さて、八王子城といえば史跡としてより、別のある側面でより知名度があることは多分みなさんご存知だと思います。すなわち心霊スポットとして。その中心がこの御主殿曲輪の前を流れる御主殿の滝、らしいです。城跡、滝ということでお約束のように落城時に籠城していた女性たちが自刃したあとこの滝から身を投げた… という話が伝わっているのがその淵源かと思われますが、そういう伝説がある滝のこれまたお約束として、高さはさほどでもなく、水量も(時期的なものはあるとしても)ちょろちょろ程度。少なくとも真っ昼間においてはたいした怖さは感じませんでした。まあ、そもそもこの趣味やってて落城の際の死人ごときに怯えていたら何度憑り殺されても足りないですし(笑)。 ただ、そもそも八王子という街自体が、大正・昭和両天皇が眠っておられる武蔵陵をはじめとする複数の大規模霊園を抱えた―住んでる人ごめんなさいな表現ですが、死者の街みたいな雰囲気があるなあ、とは少し思いました。その街全体に漂う気配の延長というか最深部と考えると、何かを感じ取れる人が感じ取っちゃう薄暗さは確かにあるのかなあ、とか。 本丸に至る山城部分は… 少なくとも登山道沿いのわかりやすいところには曲輪と、ひょっとしたら堀切かなーと思うくぼみなどが見られるくらい。気がつけば二の丸の八王子神社や石碑の立つ松木曲輪を経由して本丸にたどり着いている感じ。実は御主殿曲輪から直登で石垣などが見られるという殿の道なるルートもあるようですが、そこはボランティアガイドさんと一緒でないと登ってはいけないとのこと。他にも案内マップを見ると複数の道が城内を通っていたようですが、道標がなくなっていたり、大雨で道自体が消滅していたり… …あれ、やっぱり、この城、整備の手があまり回っていない…? 一応石垣を確認しましたが、当時のものかどうかはいまひとつ… 訪問してからしばらく後に新聞に「雑木などを伐採して石垣を見やすくした」というニュースが出ていて歯噛みしたのですが、このあたりのことだったのでしょうか。 …って、まさか整備の手が入ってないというか運悪く一番コンディションが悪い状態の時に行っちゃったのか…? 八王子神社から少し回り込んだ裏手に当たる小宮曲輪。この曲輪と本丸、松木曲輪は三方から二の丸やその下の中の曲輪を取り囲むように配置されており、登ってきた敵兵を三方から撃ちすくめて袋叩きにするつもりだった… のかもしれません。結局、この陥落が八王子城の命運を決する転換点になってしまうのですが… 曲輪にあった祠は荒れ果てて空っぽになっていましたが、残された狛犬が子連れで珍しかったので写真。 下山途中のある尾根になんか石碑が立ってたので見てみたら、関東大震災の慰霊碑でした。公的なものではなくどこかの家のもののようです。 …まあ、慰霊碑やら墓石やら城跡にはわりとつきものですが、 …やっぱこの城、ううむ… そういうふうに恐れてるふりをしながら下山して北条氏照の墓に参ってから撤退するあたり、結局のところ私は極めて鈍感な生物なんですけどね(笑)。氏照墓は下山してバス停までの間の脇道を10分ほど歩いたところにあります。 霊園都市(と今命名した)だけあって八王子はやたら石屋さんが目立ってました。石屋さんってなんかやたらとキャラクターとかの石像を作りたがりますよね。手慰みなのか、技術力のアピールなのか。うちの近所の石屋さんにはピカチュウとザクがいたり、あと某所ではモアイを見たこともあったりします。 …うん、こいつらに言及するのはやめておこう。命が惜しい。 墓石といえばいわゆる日本的な細長い直方体が真っ先に思い浮かぶのですが、このタイプのちょっとキリスト教っぽい墓石が展示されているのが目立ちました。最近の流行なんでしょうか。キリスト教式… はさすがにそんなに増えてないだろうし、無宗教とかなのかなあ。 どちらも仏事に付随する業務だと考えれば確かに兼業するのは合理的なようにも思えるものの、しかしやっぱりなんか違和感がある兼業形態。まあ、こんにゃく製の墓石をつくったり御影石を刺身にして出すような取り違えは起こりえないわけで、そういう意味では内部での混乱はないからいいのかもしれません。 今回の旅行による日本百名城達成度 78/100 関東地区クリア |
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