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ばっくとぅとっぷ


今日の吉田郡山日記 3月21日(金)


 せっかくの三連休なので長めのお出かけ。今回の目標は、西国の雄・毛利元就の居城にして私の百名城巡り中国エリアにおいて唯一残されていた吉田郡山城。その他、広島県のちょっと気になっていたスポットを2泊3日で回ります。 …と言うと数人から速攻で「呉ですか?」という反応がありましたが、呉はこれまでに数度訪れているので今回はパス。朝一番の新幹線なのに指定席が取れなかったり(自由席にはなんとか座れたけれどデッキから通路まで人が溢れまくり)と連休&春休みの威力に戦きつつ、広島駅へ。広島駅と広島バスセンターの間に結構な距離があることに到着してから気づいて焦りながらもなんとか予定通りのバスに飛び乗ります。



 広島から北上すること1時間半、安芸高田市役所前で降りた目の前の山が吉田郡山城。飛躍以前の毛利家というと「山間の小盆地の〜」という説明がなされることが多いですが、確かにぶっちゃけ、辺鄙な土地ではあります。輝元時代になって広島に移転したのもわかるような… 座ったバスの席が車体横の行先表示板(正確な名称は不明)の出っ張りがダイレクトに当たる微妙な席だったこともあって、到着するまでにすでに疲労感が(笑)。



 登城口は大きく2つありますが、安芸高田少年自然の家側のルートを取ります。





 道中にあった像たち。えーっと、どっちが元就でしたっけ…(いやお前おもいきりし書いてあるがな)



 発掘調査で検出された、山麓の酉谷地点石垣。曲輪跡や鍛冶場跡も発掘されたとのこと。往時の城域が山上だけでなく全山に及んでいたことがわかります。



 東の真田信之と並ぶ西の「弟の光が強すぎてつい影に隠れちゃう不憫なお兄ちゃん」、毛利隆元の墓。しかもこちらは光源が2つな上に寿命も… ああ、ボンクラ扱いされることの多い長兄としてはシンパシーを感じざるをえません。一緒にすんなって話ですけど自分なんかと。



 谷に沿って掘られた薬研堀。かつての内堀の一部。



 薬研堀から鳥居をくぐり、ちょっと歩くと毛利元就の墓。洞春寺という寺の跡でもあります。画像検索などしてみると幸い?美少女化は意外にされていないものの画面が緑一色になっちゃったりする元就ですが(実は薬研堀前で入手できる城のマップにもオクラ元就の画像が使われていたりする。残念なことにマップの写真を撮る前に濡れて破損しちゃいましたが…)、ぱっと浮かぶイメージはどちらかと言うとハイパーくどくどお小言爺ちゃん、でしょうか。特にうっかり酒とか飲んでるとぶっ壊れたファックスのように延々と説教お手紙が送りつけられてくる、みたいな(笑)。ともあれ、萩で輝元のお墓にも参った覚えがあるのでこれで毛利氏三代のお墓を回ったことになったりします。



 こちらは元就の兄興元、その子幸松丸、隆元夫人など一族の墓。興元といえばとりあえず若くして酒飲みすぎて亡くなった(父弘元も酒で死んでいるため、元就が酒に厳しくなった)というイメージしかなかったのですが、うぃきぺを見たら大内義興にしたがってはるばる上洛、船岡山合戦にも参戦してるんですね。というかこの時の大内勢、毛利・尼子・吉川・小早川・吉見・陶以下、のちの中国地方オールスター(の先代か先々代)勢揃いだったんですね。そりゃ畿内近国での殴り合いにいきなり参戦したらパワーバランスも崩れるというものです。



 元就墓の反対側に立つ「すべての人心を毛利氏に」…じゃなくて「百万一心」の碑。「孔明の饅頭」以来のよくあるパターン、自然の脅威や難工事に対抗する際に用いる生贄や人柱の代替品。現物は当然埋められている(いた)わけで、この石碑自体はもちろん昭和に入ってから立てられたもの。江戸時代に現物からとったとされる拓本からの模刻です。







 墓所から緩やかな山道を登ると、三の丸下の御蔵屋敷に出ます。吉田郡山城の基本構造は三の丸〜本丸の中枢部から一段下がった各尾根に放射状に曲輪が伸びるかたちですが、御蔵屋敷もその曲輪の一つ。かつては石垣として三の丸を固めていたであろう石が散乱し、上の方はわずかに石垣の痕跡をとどめています。島原の乱の後に同様の事件が起きないように徹底的に破却された結果こうなったとされていますが、そうはいってもここまでしているのは珍しいような気も。安芸のあたり、キリシタンが多かったりしたのでしょうか。あ、輝元に処刑されて殉教扱いになった熊谷元直がいたり、隣の宇喜多家には明石全登がいたりするか。あるいは関ヶ原の旧敵国領故に、萩についていかなかった元毛利家臣が蜂起することを警戒してなのか。



 井戸があるから釣井の壇。わかりやすいネーミングです。





 姫の丸とその下に伸びる曲輪。件の百万一心が刻まれた礎石が幕末に発見された場所、らしいです。 …なんかうぃきぺだと一次史料にそんな記載はなくて、礎石を発見して拓本をとったという長州藩士の言葉が話の初出だとかありますが… まあ、そこまで含めてよくあることではあります(笑)。



 姫の丸から見上げる本丸方面。整備されているおかげか道はさほど峻険な城ではないように思えるものの、このあたりの切岸の角度と高さはなかなか。





 釜屋の壇と羽子の丸間にある堀切。





 三の丸下通路の石垣跡。





 中心部で最も広大な三の丸は、石塁や高低差によって数ヶ所に区切られています。ここまでは広大ではあるものの技巧的なパーツは少なく尾根に沿って曲輪が連なっている、いかにもちょっと前の世代の巨大山城っぽい感じが強かったのですが、このあたりからは輝元時代の改修の手が入っていることがわかりやすい、ような。



 二の丸から本丸と、更に上にそびえる櫓台。このあたりでついに天候が崩れて雨混じりの雪が降ったり降らなかったり…





 二の丸も周囲をぐるっと石の列が囲んでいて、石垣なり石塁なり建物なりで固められていた感じ。



 本丸跡の石碑は櫓台の上に。あとは勢溜の壇の横を通って下りましょう。



 蓮池跡の残る満願寺跡。





 堀切で隔てられた尾崎丸。後述する本城から隆元が移り住んだと伝えられている場所。





 尾崎丸の先端からさらに下り、それまでのよく整備されたルートが段々心細くなる(ついでに雨はやまないどころかだんだん激しくなる)のに構わず進み、堀切を超えた先にある郡山城旧本城。読んで字のごとく元就の時代に山頂に大拡張されるまでの本体。急峻な尾根を二重の堀切で山塊本体から切り離して数段の曲輪を設けた、いかにも土豪の城といった風情。毛利氏の伸長に合わせるように城も大きくなったということでしょうか。



 行きは下りだったので楽だったものの帰りは意外な長さと上り坂に軽く後悔しつつ旧本城から戻り、清神社に下山。



 そういえばサッカーの強い方の紫の球団、名前を毛利の故事に由来していましたね。 …え? もう一つの紫の球団はいつになったらJ1に復帰してくるのか? …さあ…





「清神社の杉」。詳細は案内板参照。特に杉自体についてなにか… というわけではないのですが、案内板の「折しもミレニアムの年、二十世紀のモニュメントとして保存加工」という文言と「御神木」のイメージが衝突してしまってどうもいけません。



 予定よりは少し早いですが、本降りの雨の中散策するのは少しきつそうだったので一本前のバスで広島に帰還。そんなわけで時間が余ったので、広島城へ(再訪)。



 立派な二層多聞櫓… ではなく、場内にある護国神社の建物。そういや小倉城の護国神社にも城本体よりよほど豪華な城郭風建物がありましたね。そういうもんなのか。



 本丸にある…というか街中の平城の常として本丸とごく小規模な二の丸(というか機能的にはほぼ馬出)しか残っていませんが、広島大本営跡。日清戦争中はこの場所を中心に、広島市が仮初の首都たる東京から更に機能を移され、臨時首都の役割を果たしていました。では真の首都はどこか? いややなあ、そんなん今さら言うほどのことではありまへんえ。



 …お約束はさておき、広島城天守。原爆で倒壊して戦後再建されたもの。再建される前のオリジナル天守は戦時中、陸軍の書類置き場になっていたとか。外観復元のコンクリート天守ですが、下見板張りのこの適度にくたびれた色合いがいい味出してると思います。

 さて、実は今回、日程の確定が遅れたために広島市内で宿をとるのに失敗してしまっています。よってしかたがないので一旦広島を出て徳山に移動、当地の友人宅に世話になることに。まあこだま自由席なら片道3,300円、泊めてもらえる場所があるなら広島市内で探すのと大して変わらないですしね。ありがとう友人。







 徳山駅で謎の変身ヒーローの出迎えを受けつつ、友人と合流。なんか主題歌もあるんですね、カンセンジャー。あと彼の活躍にこっそり紛れているこの猿は一体。

 友人宅ではお互い積もる話を… 特に交わすこともなく、それぞれがそれぞれのPCに向かって延々艦これ。 …いや、ほら、普段からSkypeで連絡とってるというか雑談しまくってるのでそもそも積もっていないので話。直接顔を合わせているか画面で文字列を通じているかの違いしかない(笑)。 …あ、でもビスマルクが出てくれたりはしました。既に出している友人宅であることで転地療法、あるいは方違え的な効果が発揮できたのでしょうか。素晴らしい。素晴らしいけど旅の一コマとしてはどうなんだろう(笑)。

今日の宮島日記 3月22日(土)


 前夜3時位までぐだぐだ酒飲みながら艦これしてた結果、9時起きという旅行中にしてはとても遅い一日の始まり。更にそこからお互いデイリー任務を南西まで消化しようとしているうちに新幹線の時間を失してしまうなどぐだぐだを重ねつつ、友人を引き連れ在来線でえっちらおっちら宮島口へ。普段の殺伐とした一人旅なら苛立ちで憤死しかねない行動ですが、今日はこのくらい織り込み済みなのです。



 だって、そもそもの主目的が観光というより、真っ昼間から行く牡蠣食べ放題だから〜。



 ヒャッハァァーー!! 焼き牡蠣だぁー! 

 ということで、一時間制限なので焼いて焼いて焼いて食って焼いて食ってたまに爆発にビビってでも焼いて食ってひたすら牡蠣を食う。うめえ。身がでけえ。ちゅるんといけてぷりっぷりでもうたまらねえ! これで2000円は安い安い!

 …ふう。食った食った。もうなんだかこれだけで十分満足して解散してもいいところですが、宮島口まで来て宮島に渡らないというのは相当に意味不明なので、フェリーに乗りましょう。時刻はまだ3時半、日も伸びていて時間は少しありますし。





 フェリーの救命胴衣入れ。巨躯用って、つまりデ… 着用説明の絵柄もなんかいい味出してるなあ。



 フェリーの中から本土側を見ると、山腹に謎の巨大建築が。なんだあれ、宗教関係か何か?



 お、鳥居が見えてきた。



 到着した宮島はかなりの人出。どうやらもともと名所であることに加えて色々とイベントがあるようで、武将隊の皆さんがなんかステージやってたりもしました。あとからニュースを見ると翌日には前田智徳が清盛に扮して練り歩いていたとのこと。うっわ、惜しい。これはすごく見たかった(笑)。



 宮島は人も多いですが鹿も多い。けれど人を人とも思っていない奈良の鹿と違って攻撃的ではないので、かわいいものです。多分鹿せんべいとか周りで売ってないからだろうなあ。



 まずは厳島神社へ向かう観光客の流れから離れ、フェリー乗り場の眼の前にある丘、要害山に登る。厳島合戦の際に毛利方が築いた宮尾城へ。主郭と二郭、あと堀切らしき通路(写真は主郭から見た二郭)からなる砦か陣城程度の小さな城ですが、そもそもこの城の存在自体が餌だった、とかいう話もあるのでこれでいいのでしょう。当時は今より海が迫っていたことと丘とはいえ傾斜がかなり急なことを考えると、規模の割にはめんどくさそうなですし。

 …と、いつもの単独行動のノリで友人を連れ回していたら、心底呆れ帰った顔で「まさかお前、この程度のものを見るためだけに全国歩きまわってるのか…」と呟かれてしまう。いやまあ、ここは城の中でも一発ネタ程度のランクで… …って端から見たらほとんどのランクが「なにもない」で片付けられる程度の差しかないか… うん、付き合わせてすまん(笑)。





 干潮だったので大鳥居の直下まで歩く。



 鳥居の根本のフジツボが付いているところには、なぜか硬貨が大量にはめこまれていました。



 …その結果、潮の満ち引きなどの力によって鳥居の下はこんなことに。さすがに人目全開なので拾ってるような人はいませんでしたが、このお金どうするんでしょう。定期的に回収してお賽銭に計上してるのかなあ。





 …実は社殿には拝観料がかかるのと一方通行の出口側から歩いてしまって今更もう一周するのが面倒くさいのとで入っていません(笑)。



 宮尾城に布陣した毛利勢に対し、陶勢はこの五重塔のある高台(塔の岡。まんまである)に布陣しました。勝山城という城があったのもこの場所だという情報をネットで見たのですが、実際には厳島神社を挟んだ反対側の多宝塔のある場所が正しいっぽい。よって今回はスルーしてました。



 あとは土産物街をぶらぶらしながらフェリー乗り場へ。ご当地キャラですねえ。





 鹿ソフト。なにがどう鹿かってこの黒いツブツブが鹿のアレ。鹿以外のパターンも含めてちょくちょく見かける系統ではありますが、誰だ、こういう素っ頓狂なネタをはじめに実行したのは…
 ってよく考えたら我らが真首都には花供曽(はなくそ)というお菓子がありましたね。季節ものというかお釈迦さん関係の行事の時にもらう。あのあたりが諸悪の根源なんでしょうか。



 洋上から宮尾城を眺めながら、本土へ。徳山へ帰る友人とは広島駅で別れ。本日の宿泊地三原へ移動。いつもの私の旅行にしては常にない優雅でのんびりとした一日でした。急な呼び出しに付き合ってくれた友人に感謝。しかし牡蠣うまかったなあ。旅行記書こうとして写真見てたらまた食いたくなってきたぞ…(間抜けすぎる自爆) 2014広島旅行記 後へ
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